第三十九話:恐ろしい第一皇子です
「隔離厩へ行く」
ルドルフ第一皇子の顎に線が入った。硬くなっているようだ。次の命令も短かった。また馬車に乗ることになった。
隔離厩は軍馬厩の隣にある建物ではない。軍馬管理区の北端からさらに五キロほど奥へ入った旧牧草地の外れにある。病を疑われた馬を他の馬から離すため、わざと人目を外れた場所に作られているのだ。
道は途中から細くなり、硬い土を踏む車輪の音が続く。これは確かに、エリーゼを連れてくるわけには行かない。振動でお尻が痛くなる。エルヴィスなど馬車酔いも加わりぐったりしている。こういう遠い場所にある帳簿ほど現物確認に行く人間が減り、その確認の頻度が落ちてしまう。前世でも今世でも、面倒な距離感は時に不正の味方になりえる。
隔離厩は低い石壁に囲まれていた。入口には消毒用の石灰箱が置かれていて、さっきまであった干し草と革油の匂いは薄く、代わりに石灰と湿った木材の匂いがした。
ここは、病を疑われた馬を入れる場所だ。だから普通の厩務員は近づかないし、所有者ですら簡単には入れない。馬疫を恐れる理由はよく分かる。だがこういった見えにくい場所は、悪事を隠す場所にもなりえる。
カスケード号が入れられたという病厩には古い立入禁止の札と、カスケード号の管理札だけが残っていた。馬の姿はない。床は乾ききっていて、藁も敷かれていなかった。見た感じ、長い間使われていないようだった。
扉の奥側の柱に、小さな吊り金具が一つ残っていた。
「これは?」
「殿下、こちらにも」
エスメラルダが反対側の柱を指した。そこにも同じ金具がある。よく見ると、左の柱に四つ、右の柱にも四つ。さらにユリウスが無言で上を見上げた。
上の梁にも、金具が四つ吊り下げられている。
「全部で十二個だね」
ユリウスが言った。その表情からは、いつもの笑みが消えていた。
「結界石を吊るせばこの一面を覆う結界ができる。兄上、馬疫疑いで隔離したなら、ここに簡易結界を張るはずです。魔術院の規則でも軍務殿との取り決めでも、そうなっています」
「張られていたのか?」
ユリウスがノアに目配せをした。ノアが横から近寄り、金具に向かって手をかざし目を閉じた。
「魔力残滓は薄いです。結界石を実際に使った形跡はありません。吊るした形だけ作ったか、ほんの少しの間だけ置いたのでしょう」
「つまり、僕の結界石はここで使われたことにされていた。でも実際にはその石は見当たらないし、使った形跡すらない」
ユリウスが小さく笑った。
「隔離したふりをしたわけだ。また、ずいぶんと舐められたものだね」
ルドルフ第一皇子の目が、空の病厩からユリウスへ移る。
「お前の石の話か?」
「兄上の馬の話でもあります。僕の石を名目にして、兄上の馬を隔離したことにした。誰かがそういう筋書きを作ったのでしょう」
「ほう」
ルドルフのこめかみに筋ができた。気づいたのは僕だけではないはずだが、エルヴィス以外は平静を保っている。
ユリウスは、病厩に残った小さな金具を見た。
「病馬の隔離という名目は便利ですね。軍は馬疫を恐れて近づきにくく、魔術院は軍馬の話だと思って深く踏み込めない。兄上には処分済みだと報告し、魔術院には返却済みだと嘯く」
「軍と魔術院、どちらからも見えにくい場所を選んだとでも言うのか?」
「そうです。第一皇子と第二皇子の管轄をまたいだのではありません。隠したんですよ。両方の管轄の隙間に」
「厩舎長ザイオンを連れて参りました」
ルドルフの護衛の一人が言った。隔離厩の入口で、ザイオンという男が額に汗を浮かべていた。背は高く姿勢はいい。だが目が泳いでいる。
「カ、カスケード号は、残念ながら脚を痛めまして……」
「まだ何も聞いてない」
ルドルフが言った。ザイオンは短く悲鳴を上げる。
「四か月前、お前はカスケードを処分済みと報告したな?」
「は、はい。馬疫の疑いが出たため、規定に従い、隔離のうえ処分したと」
「その報告を、俺は受けた」
「はい」
「では、なぜ、死んだカスケードが餌を食うのだ?」
ザイオンは口を開けたまま固まった。いい返答が見つからないようだった。
「て、手続き上の……処理の遅れで」
「四か月分の飼養費が出るほど遅れたのか?」
ルドルフが一歩近づくと、ザイオンの膝が少し曲がる。僕は慌てて二人の間に帳簿を持った手を差し出した。
「兄上! まだ殴らないでください」
「殴るとは言ってない」
嘘だ。その目は殴る気満々だ。
「ヴィル。兄上は殴る前に断りを入れるような方ではないよ。不言実行タイプだ」
ユリウスが横から入る。
「だから止めたんですよ」
「わかってるならよろしい」
「ひとっつも、よくないです!」
僕が叫ぶと、ルドルフが僕を見た。人を何人か殺してる目をしていた。
「俺を何だと思っている」
ルドルフの低い声が僕の腹に響く。
「恐ろしい第一皇子です」
思わず口から本音が出てしまった。
厩務員の誰かが息を呑む声がした。エルヴィスが「あ」と小さく言った。ノアの眉がわずかに上がった。ハンスの視線がこちらへ刺さる。
エスメラルダだけが、僕の隣で背中を押してくれていた。僕が倒れないようにしてくれているのか、それとも今すぐルドルフに立ち向かえとけしかけるつもりなのか。
ルドルフはしばらくの間黙っていた。
「続けろ」
命令口調だった。少なくとも、怒鳴られはせずにほっとする。どうやら続けていいらしい。寿命が少し縮んだ。
エスメラルダが背中に添えていた手を離すと、僕はよろけてしまった。
「殿下」
エルヴィスが恐る恐る声をかけた。病厩の入り口に下げられた、管理札を見ていた。
「この札、よく見てください。削られています」
「削られている?」
「名前の下です。前に書かれていた印か管理番号を消した跡かもしれません」
札を外して光に傾ける。たしかに、木目の一部が新しい。刃物で薄く削った跡がある。
僕は厩舎長を見た。
「カスケード号の特徴は?」
「額に白い星形の模様がございます」
「処分時の確認者は?」
「軍馬医の署名があるはずです」
確かに、台帳には軍馬医の署名があった。だが、心なしか字が硬い。署名というより、見本をなぞったような不恰好さがあった。
「それでは、軍馬医本人を呼んでください」
ザイオンの顔から、血の気が引いた。ハンスが病厩の入口へ立っている。ザイオンが外へ逃げる道はない。
同時にノアが厩舎の奥へ視線を投げた。外の方で、第二皇子の護衛が動いた気配がした。会話も何もない。目配せだけで人を動かせる。味方で良かったと、心から思った。
「軍馬施設の中で勝手に人を動かすな」
ハンスが、ルドルフ張りの低い声で言った。
「逃げ道を塞いだだけです」
ノアは淡々と答える。
「それはこちらの役目だ」
「逃げてからだと遅いので」
ノアの返答に、場の空気が一瞬で凍りついた。エスメラルダが小さく息を吐く。
「喧嘩は止めてください」
エスメラルダが、僕に向かって大声で言った。
「僕に言われても困るよ」
「失礼しました」
彼女がそう言うと、ハンスとノアが同時に目を逸らした。
ルドルフとユリウスの護衛はなかなかだが、僕の護衛も負けてない。




