第三十八話:戦でも起こされるおつもりですか
第一皇子宮に事前の伺いもなく押しかけるのは、本来ならかなり無礼だ。まして格下である第二皇子と第三皇子が並んで訪れるとなれば、その廊下の空気は重くなって当然だろう。
第一皇子宮は第三皇子宮と匂いが違った。具体的には花や薬湯の匂いより、革油と磨かれた金具の匂いが鼻腔をくすぐった。廊下を歩く侍従の足音が、妙に揃っていた。
受付にいた文官は、僕たちを見るなり顔色を変えた。
「第三皇子殿下、第二皇子殿下。ご来訪のお約束は?」
「すみません。ありません」
言っていて胃が痛くなった。
「急用です。ルドルフ第一皇子にお目通りをお願いいたします」
「しょ、少々お待ちを」
文官が奥の扉を開けようとしたところで、扉の内側から短髪の騎士が現れた。
見覚えがあった。オーバールック橋で見た、ハンス・ドブラッツ卿だ。第一皇子護衛隊長である。
彼が現れた瞬間、エスメラルダが僕の半歩前に出た。ほぼ同時に、ノアが音もなくユリウスの前に立った。
第一、第二、第三皇子の護衛が相対する。それだけで、廊下にいた文官たちは皆背筋を伸ばした。
「これはこれは。第三皇子のみならず、第二皇子まで参上されるとは」
ハンスの声は低く、廊下によく響いた。
「戦でも起こされるおつもりですか?」
「まさか」
ユリウスは、のんびりと笑った。
「兄上に会いに来ただけだよ。腹違いでも、僕らは血を分けた兄弟だ。たまにふらりと遊びに来るくらい、いいだろう?」
「お三方がそう思われたとしても、周囲はそう思いませんよ」
ハンスが背後で震える文官らを見る。ユリウスは笑みを崩さない。
「兄上と僕が虚仮にされているんだ。それをヴィルが見つけた」
「冗談はおやめください」
「冗談を言いに、わざわざここまで来ると思うかい?」
ユリウスは軽い声で言った。だが周囲は水を打ったようにしんと静まり返る。
ああいやだ。帰りたい。こういう雰囲気、ほんと苦手なんだよな。
僕がそう思った矢先、ノアの黒い手袋がわずかに動いた。ハンスの視線がそこに落ちる。周囲の雰囲気が一気に変わった。重い。空気が重すぎる。
パンっ!
と耳をつんざく音がした。ハンスが身構え、ノアはユリウスの前で剣の柄に手をかけていた。
見ると、エスメラルダが両手の平を体の前に合わせていた。
「失礼。殿下方は、不正を見つけたためその報告に馳せ参じました。ここで双方の護衛同士が張り合えば、喜ぶのは不正を働いた者だけではないでしょうか?」
エスメラルダが落ち着いた口調で言った。言葉遣いは丁寧なのだが、内容は容赦がない。
ハンスがエスメラルダをじっと睨みつける。ノアも同様に、射るような視線をエスメラルダに送っていた。二人の視線を受けても、エスメラルダは瞬きひとつしない。むしろ二人を睨み返すようにゆっくりと、交互に視線を合わせた。
揉め事は本当に勘弁して欲しい。
「第三皇子の護衛は、よく喋る」
ハンスが姿勢を正した。ノアも剣の柄に置いていた手を離す。
「必要な時だけです」
「今が必要だとでも言うのか?」
「はい」
エスメラルダが言った。沈黙が落ちた。
ああ、嫌な雰囲気だ。帰りたい。
「騒々しい」
その沈黙を割ったのは、奥から響いてきた重い足音と低い声だった。僕は一瞬で背筋をピンと伸ばす。
訓練用の上衣を着たルドルフ第一皇子が、廊下の向こうから歩いてきた。外したばかりらしい革の籠手を小脇に抱え、額には汗が滲んでいる。おそらく、練兵場から戻ったばかりだ。
ルドルフは僕を見て、ユリウスを見た。その後にエスメラルダとハンス、ノアの立ち位置を確認する。
「何事だ。簡潔に説明せよ」
命令口調だった。偉そうだが、実際に偉いので全く不快には感じない。
「兄上。カスケード号の件で、ご報告したいことがありまして……」
ルドルフの眉がぴくりと動いた。
僕は処分記録、飼養費台帳、小型結界石の貸出控えを順に差し出した。
手短に説明するつもりだった。カスケード号が馬疫疑いで隔離され、処分済みになっていること。その後も飼養費が計上されていること。隔離名目に使われたはずの結界石が、ユリウスの管轄から不正に貸し出されていること。
「手短に説明します。カス……」
「軍馬管理区へ行く。馬車を出せ。先触れはいらん」
ルドルフは僕の手から書類の束を剥ぎ取るように奪うと、それだけ言って踵を返した。
早い。判断が早すぎる。こちらはまだ心の準備ができていない。
その一言で、ハンスがルドルフに続いた。どこから現れたのか、ほか六人の騎士もその後ろに続く。僕とユリウスはお互いに目で合図を交わし、その後に続く。ノアは音もなくユリウスの斜め後ろにつき、エスメラルダは僕の隣に並ぶ。
三人の皇子と、それぞれの護衛が連れ立って歩く。しかも、多少早歩きで。
軍馬厩に続く廊下はただの廊下なのに、式典の行列のような緊張感を帯びていた。僕以上に狼狽えているエルヴィスを見て、僕はようやく落ち着くことができた。
北門外の軍馬管理区には、長い厩舎が何棟も並んでいた。干し草と革油の匂いがする。馬の鼻息と蹄が床を叩く音、飼葉桶を動かす音。軍糧庫とはまるで違う。ここには生き物の熱があった。
だがその熱は僕たちが入った途端、少し乱れた。
厩務員たちはまずルドルフ第一皇子を見て固まった。次にユリウス第二皇子を見て、さらに口を大きく開けた。最後に僕を見て、なぜか嫌そうな顔をした。
ひどい。僕はまだ何もしていない。ただ帳簿を持って現れただけなのに。
カスケード号の札が掛かった馬房は、端から三つ目だった。空だった。床には綺麗な、新しい藁が敷かれている。飼葉桶もよく磨かれていて、使われている形跡がない。桶の底には、大麦の殻が一粒も残っていない。
「処分届の日付は、四か月ほど前です」
僕は台帳を開いた。
「それ以降も毎月特別飼葉代と清掃費、蹄鉄交換費が出ています。処分時の焼却費と、馬房の石灰消毒費も支払済みです」
「死んだ馬に蹄鉄を打っているのか?」
ルドルフの声は低く、落ち着いていた。だがその声は、常人の怒鳴り声よりも遥かに怖い。
「帳簿上では」
「その言葉は便利だな」
「はい。便利すぎて腹が立ちます」
第一皇子が馬房の柱に手を置くと、指が少しだけ白くなった。
「死んだ馬の名を台帳に残し、空の馬房を掃除したことにして、飼葉代と蹄鉄代を抜く。嫌な手口ですが、帳簿上ではそう説明できます」
僕は空の馬房を見たまま言った。空なのに、金だけが動いている。
それだけでも十分に腹立たしい。
だがカスケード号の処分記録には、また別の場所が書かれていた。




