第三十七話:お馬さん、かわいそう
「お馬さん、しんでるの?」
僕のそばで、小さな布袋を抱えているエリーゼが心配そうに言った。中に入っているのは箱庭用にカリナが分けてくれた、乾いた大麦の粒だ。軍糧庫の一件以来、彼女はその袋を「北のおうえんごはん」と呼んで持ち歩いていた。中身はまだ一粒も減っていない。減らすのが惜しくなったらしい。
「帳簿上では、ね」
「でも、ごはん食べてるんでしょう?」
「はい。帳簿上、では」
エリーゼはしばらく考えた後、困った表情を見せた。
「お馬さん、かわいそう」
「どうして?」
僕が尋ねると、エリーゼは蹄鉄交換費の行を小さな指で押さえた。
「しんでるなら、ごはんは食べられないでしょ? でもほんとは生きてるなら、いまはおうちにかえれてないってことでしょ?」
僕はハッとする。エリーゼの言う通りだった。
処分された上に名を使われている。処分されていないとなれば、一体どこに連れて行かれたのか。どちらにしても、かなりかわいそうだ。
「第一皇子殿下に知らせに行きますか?」
エスメラルダが言った。
頭ではわかっている。これはルドルフ第一皇子の愛馬の話だ。彼に詳細を伝え、判断を仰いだ方がいいのは百パーセント正しい。
だが。
だが僕は、ルドルフ第一皇子に会いたくない。あの強面の鋭い眼光で睨まれると、生きた心地がしないのだ。先日の橋の件では、うまく取り持つことができた。だが今回もそういう結果になるとは限らない。マジで怖いからな、あの人。
「殿下?」
エスメラルダが僕の顔を覗き込む。わかってる。わかってるよ。
「知らせに、行きます」
僕は渋々と声を絞り出した。
ユリウスが貸出控えを畳み、椅子から立ち上がる。
「僕も行くよ」
「兄上も?」
「僕の結界石が兄上の馬の隔離に使われたことになっているんだ。僕の責任でもあるだろう」
「そこはなんとかうまいこと言っておきますよ」
第一皇子に会いに行くだけでも気が引けるというのに、第二皇子と第三皇子が連れ立って行ったらどんな事態になるか想像がつかない。少なくとも、いい状態にはならないだろう、と直感で思った。
「いやさ、ここで僕が帰ると面白くないだろう」
「面白さの問題ではありません」
「分かっている。だから行く」
ユリウスの背後でノア卿が音もなく一歩動いた。薄い外套姿の第二皇子だけなら、気まぐれな散歩に見えなくもない。だがその背後にノア卿が立つと雰囲気がガラリと変わる。
「ノア卿も行かれるのですか?」
「殿下を一人にするわけにはいきませんので」
エスメラルダが僕の半歩後ろへ立った。こちらも無言で、剣の柄を握っている。
「連れ歩く護衛が増えると、話が大きくなりませんか?」
「もう十分大きくなってるよ、ヴィル」
ユリウスは笑った。
「どちらにしろ兄上の馬が何かに利用され、僕の結界石がその処理に使われたことになっている。この国の第一皇子と第二皇子の管轄を跨いで、だ。もう、放っておける事案ではないよ。まったく、君はいつも、他の皇子を巻き込むね」
「悪いのは僕じゃなく、不正をしている人間です」
「その不正を暴いているのは君だ。君が帳簿を見なければ、こんな事態になっていることすら気づかなかった」
返す言葉に困った。
気は重いが、これはルドルフ第一皇子の領分だ。
ただの飼養費の不正なら帳簿だけ先に押さえ、不正を糾弾する手もある。だが、その対象がルドルフ第一皇子の愛馬なら、やはり知らせずに進めるわけにはいかない。
エリーゼが何か口を開きかけた時、メイド長のカリナが彼女の肩にそっと手を置いた。
「エリーゼ様は、ルナフレア様のお部屋でお待ちくださいませ」
「エリーゼはお馬さん見にいけないの?」
「軍馬厩は馬も人も気が立っております。エリーゼ様が近づくような場所ではございません」
「でもエリーゼ、いきたい。お馬さんがかわいそうだったら、たすけてあげたい」
エリーゼの目には涙が浮かんでいた。本気で馬を心配しているようだった。
「そのお気持ちだけで、馬は喜んでいますよ。助けが必要かどうかは、これから殿下が様子を見に行かれます。そのお仕事は、殿下に託しましょう」
エリーゼは僕を見た。僕に期待を寄せる目だ。もう、逃げ場はない。
「分かりました。エリーゼの分まで、しっかり見てきます」
そう言うと、エリーゼが僕のそばに立った。
「お兄さま」
「はい?」
「お馬さんが、ちゃんとごはん食べてるか、みてあげてね」
「はい」
カリナはエリーゼを抱き寄せるようにして、少しだけ頭を下げた。
ルドルフ第一皇子は怖いから会いたくない、とは口が裂けても言えない。




