第四話:部屋から出たくない
翌朝、僕は初登庁を拒否した。
正確に言うと、ベッドの中で毛布を頭までかぶり、帝室会計監査局などという物騒な単語は存在しないものとして扱うことにしたのだ。存在しないものは、気にしなくていい。
前世の僕は、子会社監査ばかり回される経理屋だった。早朝からの飛行機移動はもちろん、始発電車に終電、夜行バス、新幹線、知らない支社の会議室、硬いビジネスホテルの枕の数々。移動時間は労働時間に入らないのに、体力だけはきっちり削られる。マイルだけはしこたま溜まった。全然使わずに異世界に来ちゃったけど。
だから今世で僕が欲しいものは、派手な権力ではない。
自分だけの有意義なスペースと時間だ。
鍵のかかる部屋に温かいお茶、知識欲をくすぐる書籍、誰にも呼ばれない午後、予定のない休日。皇子という高貴な身分でそれくらい望むのは、決して贅沢なことではないはずだ。たぶん。
「殿下。初登庁のお時間です」
扉の向こうから、護衛のエスメラルダの声が聞こえた。
「僕は第三皇子宮の備品です。移動には申請書が要ります」
僕は毛布から顔だけだして返答する。
「では、私が運搬責任者になります」
エスメラルダは扉越しでもよく通る、澄んだ声で言った。
「護衛が備品を運ぶのは職務範囲外ではありませんか?」
「先日結んだ契約書には、職務として殿下の生命を守る、とありました」
「その殿下の生命は今、寝台の中で堅牢に守られています」
なかなか厄介な相手だったが、扉の向こうに沈黙が落ちた。
勝った。かもしれない。
僕はまた、ベッドの中で毛布を頭から被る。
「エリーゼ様がお見えです」
エスメラルダの声が、毛布越しでもはっきりと聞こえた。
僕は長いため息を吐いた。
負けた。
前世の僕には歳の離れた妹が二人いた。その下の妹とこの世界の妹、エリーゼは瓜二つといっていいほど、そっくりだった。その表情と声だけで、僕は彼女を百二十パーセント擁護せざるを得ない。
僕が毛布の端から顔を出すと、すでに寝室の扉が少しだけ開いていた。隙間からエリーゼが顔を覗かせ、その後、部屋の中に入ってきた。両手に小さな缶を抱えていた。蜂蜜菓子の空き缶だった。蓋には彼女が描いたらしい猫の絵が貼ってあった。
「かわいい猫だね」
僕がそう言うと、エリーゼが頬を膨らませる。
「獅子です。殿下の印章の」
エスメラルダがそばにきて耳打ちした。よく見ると、確かに猫の顔のまわりにたてがみのようなものが描いてあった。
「お兄さまは、国のお金を見る人になるの?」
エリーゼが首を傾げながら尋ねた。
「なるわけないだろ」
「なんで?」
時間を取られて面倒くさい、と言うのが大筋の理由なのだが、それを面と向かっていうのは妹の教育上よろしくない。
「国のお金は大事だからね。僕よりも、もーっと賢い人が、きちんと管理すべきなんだ」
「お兄さまよりかしこい人? お兄さまはかしこくないの?」
「そんなことないよ」
「めんどくさがりやさんなだけ?」
不意に図星を突かれ、答えに窮する。
「そんなことないよ」
「だったらやればいいじゃん。お兄さま、いちゃもんつけるのとくいだし」
いちゃもん?
「どこで覚えたんだ、そんな言葉」
エリーゼは僕の問いに答える気はなく、抱えていた缶を僕に向けた。
「これあげる。かんさきょくのつくえにおいておいて。お兄さまがさびしくないように」
「ありがとう。これは、何を入れる缶なの?」
「おかし」
「監査局の机にお菓子は置きませんよ」
「じゃあ、ペンでもたてて」
なるほど。ペン立てにしてはちょうどいいかも。
僕は缶を受け取った。底に砂糖の粒が少し残っていて、振るとからりと鳴った。
見ると缶の中に、小さく折った紙片が入っていた。
開くと丸い字でこう書いてある。
【お兄さまはけちなひと
けちなひとのるーる
一、お兄さまは同じものを二回買わない
二、お兄さまはまだつかえるものをつかう
三、お兄さまはすぐ帰ろうとする】
「三つ目だけ、けち関係なくない?」
「けど、すぐ帰ろうとする」
妹の監査基準は雑だ。
だが、なぜか外れていない気がした。
妹との会話は取り留めのないものだが、とても心が満たされる。
「殿下、そろそろ」
エスメラルダが再び耳打ちする。それに気づいたエリーゼが笑顔で言った。
「いってらっしゃい。こわい人たちにまけないでね」
「怖い人たちのところへ行きたくないから、今こうしているんだけど」
エリーゼは首を傾げた。
「でも、お兄さまが行かないと、もっとこわい人がかつんでしょう?」
逃げ道を塞がれてしまった。
だが悪い気はしない。
僕は仕方なく起き上がる。
エスメラルダが、なぜか満足そうに頷いた。




