第三話:獅子の尾の秘密
広間がざわついた。
ドルツ会計官が、わざとらしく目を伏せる。
「殿下。畏れながら、印章が偽物だとおっしゃるなら、それを証明なさいませんと。帳簿は、感情では覆りません」
「その通りです」
僕はうなずいた。帳簿は感情では覆らない。だから好きだ。
「まず、帳簿どおりの品が納められたか確認します。納品物を拝見できますか」
「納品物?」
「金貨七千七百七十七枚で、何を買ったことになっているのか。帳簿には『北方軍冬営用外套、五百着』とありますが」
壁際にいた軍需商人の肩がぴくりと跳ねたのを、僕は見逃さなかった。
兵士が箱を運び込んだ。蓋が開かれる。中に詰められていたのは、外套とは名ばかりの薄い布だった。端がほつれ、染めむらがある。これでは冬営どころか秋の夜番にも耐えられないだろう。
父上の眉が動いた。
「これを北方へ送るつもりだったのか?」
誰も答えない。
僕は一着を手に取り、襟の内側をめくった。小さな織り印がある。薔薇を抱いた鹿。劇場用の古布を扱う、南市の古物商の印だ。
「この布、先月まで夜会用の垂れ幕でした。第三皇子宮で衣装新調を年二回に減らした時、この薔薇鹿印の商会から『余った絹を買いませんか』と営業が来ました。見積もりが高かったので断りましたが」
僕は粗末な布を手に、掘り起こした記憶を口にする。
「なぜそんなことを覚えている?」
父上が言った。
「高かったので」
僕は即答する。高い見積もりは忘れない。
壁際の商人が膝から崩れた。額が床に当たり、ごつん、と鈍い音がした。広間にいた全員の視線が、その音へ集まる。
「も、申し訳ございません! ドルツ様に、帳簿上だけ通せばよいと言われたもので……」
この場の空気に耐えられなかったのだろう。商人は両手をついて頭を下げた。白状してしまえば、罪が軽くなると踏んだのかもしれない。
「黙れ!」
ドルツ会計官が叫んだ。紙の粉のついた指が震えている。
僕はその指を見て、少しだけ息を吐いた。怖いのは僕だけではないらしい。
ひとつ目は崩れた。帳簿に書かれた「冬営用外套」は、実物と合わなかった。
「次に、承認印です」
僕は自分の懐から、小さな紙片を取り出した。新印章を作った職人の納品書だ。余白に、確認用の印影が押されている。
「僕の新印章には、獅子の尾の先に小さな欠けがあります。職人が仕上げの時に削り落としてしまったそうです。値引きしてもらいました」
父上がかすかに目を細めた。
「値引き?」
「はい。作り直すと提案されましたが、使えなくはないので値引きの材料にしました」
僕は卓上の帳簿を指した。
「僕が押した印なら、獅子の尾は欠けたまま写ります。ところが、この支出承認欄の印影では、尾が横へ細く伸びています。これは完成した印章ではなく、どこかへ提出された登録用の図案を見て作った偽印章です」
ドルツ会計官の喉が鳴った。
「し、しかし、その登録用の図案は宰相府にも軍需局にも渡っているはず……」
「回しましたよ。宮内会計課と宰相府、軍需局へ一通ずつ。どこから漏れたか分かるように」
「は?」
「三通の違いは、控え台帳に残してあります。本物の印章は、職人が削り落としてしまったせいで、獅子の尾の先が欠けたままです。ですが三部署へ渡した図案では、その欠けた尾を少しだけ継ぎ足してあります。宮内会計課へ渡した図案では上へ。宰相府へ渡した図案では横へ。軍需局へ渡した図案では下へ」
僕は帳簿の支出承認欄を父上の前へ滑らせた。小さな獅子の尾が、横へ細く伸びている。
「横へ伸びているのは、宰相府へ渡した図案だけです。この偽印章は、宰相府の図案を見て作られています。少なくとも、僕が完成品の印章で押したものではありません」
広間の空気が固まった。
ワイドアウト宰相の目だけが、細くなる。
「それが何だというのだ」
ワイドアウト宰相の声は冷たい。
「宰相府の中に、偽造師へ図案を渡した者がいます。偽造師はそれが目印だと知らず、そのまま彫ったのでしょう」
広間のざわめきが、今度は波になった。
ドルツ会計官が一歩下がる。下がった先に、エスメラルダの剣の鞘があった。
「動くな」
彼女の声は静かだった。
ドルツは笑おうとした。だが、うまく笑えていない。
「わ、私は命じられただけです。数字を少し丸めろと。第三皇子の浪費に紛れさせれば、誰も」
そこまで言って、彼は自分の口を押さえた。
軍需費の水増しを、僕の浪費に紛れ込ませるつもりだった。ドルツは自分の口で、そこまで認めた。
父上が立ち上がった。広間の全員が膝をつく。
「ドルツを拘束せよ。関わった商会は全契約停止。納入済みの代金は回収し、北方軍には帝室予備費より即日、正規品を送れ!」
「陛下」
僕は思わず顔を上げた。
「正規品は予備費からではなく、今年度の夜会費から回すべきかと。予備費を使うと、来月の薬草備蓄に響きます」
父上は僕を見た。怒られるかと思った。
だが、父上は口の端を少しだけ上げた。
「聞いたか、ワイドアウト。こやつは自分の疑いが晴れた直後に、余の予備費まで気にかけよる」
「まこと、恐るべきご慧眼にございます」
ワイドアウト宰相が深く頭を下げた。だが、その顔色はうかがえなかった。
僕は見えない顔より、見えている数字の方を信じることにした。
◇ ◇ ◇
【御前会計検分後の宮廷噂話】
「聞いたか、御前会計検分での第三皇子殿下の立ち振る舞い」
「ああ。自分の偽印章すら餌にして、宰相府の内通者を釣り上げたらしいな」
「図案を三通に分けていたらしい。上、横、下だと」
「恐ろしいお方だ。これでは、どちらが黒幕かわからんな」
「だが北方軍の外套代は出たらしいぞ。夜会費を削って」
「恐ろしい……。だが、兵にはありがたいな」
「あの方がいると、無駄遣いがなくなるな」
◇ ◇ ◇
御前会計検分の後、僕は彼女を第三皇子宮の中庭に呼び出した。経費削減のため庭師の剪定回数を減らしたせいで、薔薇が少し勝手な方向に伸びている。一本だけ袖に引っかかったので、僕はそっと外した。使用人らは困った顔をするが、僕は嫌いではない。花は多少、好きな方に咲いた方が花らしい。
「エスメラルダ」
「はい」
「さっきは助かりました。ドルツが逃げかけた時」
エスメラルダは一度だけ瞬きをした。
「職務です」
「その職務も、今日で終わりですよね。僕の疑いは晴れましたし」
「はい。監視役としての任は、本日で解かれました」
「では」
「ですので、次は護衛としてお仕えしたいのです」
「は?」
「第三皇子殿下の護衛を志願しました。陛下には、すでに願い出ております」
「聞いていません」
「今、申し上げました」
順序がおかしい。
「僕は引き籠りたいんですが」
「承知しております。引き籠るためには、その扉を守る門番が必要なのではありませんか?」
何も言い返せなかった。正論ではない。だが、今日の広間での彼女の姿を思い出すと、拒む言葉が薄くなる。
「給金は高くありませんよ。経費削減中なので」
「構いません」
「危ないかもしれません」
「承知しています」
「僕は怖がりですよ」
「四六時中見張ります」
重い。感情が少し重い。
でも、悪くはなかった。
「では、契約書を作ります。勤務範囲、休暇、危険手当、あと雇用主への事前相談義務を」
「事前相談義務?」
「僕に確認する前に陛下へ願い出るのは順序がおかしいので」
エスメラルダはしばらく黙った。剪定を減らした薔薇棚から、細い枝が通路にはみ出している。それが風に揺れて、彼女の肩当てをこつんと叩いた。
それから、小さくうなずいた。
「努力します」
そこは断言してほしい。
◇ ◇ ◇
その夜、エリーゼがまた僕の部屋に忍び込んできた。
「お兄さま、今日はこわいひとに勝ったの?」
「勝ったというより、帳簿の間違いを直しただけだよ」
「じゃあ、お兄さまは、国の帳簿係になったの?」
「ならない」
と、言った直後、侍従長が銀盆に辞令を載せて入ってきた。
父上からだった。
【第三皇子ヴィルヘルムを、新設の帝室会計監査局の臨時監督官に任ずる】
僕は辞令を三回読んだ。三回読んでも内容は変わらなかった。
「お兄さま、しゅっせ?」
「違う。罠だ」
「わぁい、わなだぁ」
喜ぶな。
辞令の下には、初仕事の帳簿が一冊添えられていた。陛下の印の横には、手続き上どうしても必要なワイドアウト宰相の副署。開くと、一行目の支出予定額が目に入る。
金貨一万七千七百七十七枚。
やっぱり七だ。
僕は深く息を吸った。処刑台はまだ消えていない。
僕は新しい台帳を開き、表紙に書いた。
【帝室会計監査局・初年度予算案】
その下に、少し迷ってから小さく付け足す。
【ただし、僕の引き籠り時間を最優先とする】
扉の向こうで咳払いが聞こえた。エスメラルダだ。
「殿下。明日は監査局の初登庁です」
「聞こえないことにします」
「聞こえるまで申し上げますよ」
だめだ。この護衛、費用対効果が高すぎる。
僕はペンを持ち直した。まずは、監査局の備品購入からだ。
相見積もりは、必ず取ろう。




