第二話:ただ経費を削減しただけなのに
【某伯爵から某侯爵への書簡】
『例の第三皇子、ただの引き籠りではないぞ。奴が「取引を見直した」商会が、立て続けに三つ潰れた。いずれも例の筋の金庫番だった商会だ。おまけに印章の切り替えで、裏帳簿の仕込みが紙屑になった。あの若さで、剣も魔法も使わず、書類だけで派閥の資金網を三つ切った。恐るべきは第三皇子。あれは帝国の金脈を、裏から牛耳るつもりだ』
◇ ◇ ◇
おかしい。ただ経費を削減しただけなのに、宮廷の空気が変わった。
廊下ですれ違う貴族が、僕を見ると壁際に避けて最敬礼をする。夜会の招待状が急に増えた(全部欠席した。引き籠りなので)。第一皇子派と第二皇子派の両方から、それぞれ「お茶会」の誘いまで来た。
これは馬鹿でもわかる。踏み絵だ。どちらに付いても、三年後の処刑ルートで「政争に加担した」の一行が増えるだけだ。なので、僕は両方に同じ返事を書いた。
『予算の中立性を守る立場ゆえ、いずれの会にも出席いたしかねます。ヴィルヘルム』
我ながら完璧に事務的な文面だった。経理は派閥に属さない。それだけの意味だった。
翌週、宮廷はこの返事の解釈で持ちきりになったらしい。
「両派閥に対し同文・同日・同時刻の返書。『どちらの派閥も俺の掌の上』という宣言だ」
「第三極の樹立か?」
「いや、あの方はもっと上を見ておられる。『予算の中立性』とは、どちらにも与しないという意味ではない。帝国の金庫そのものを握るという宣言だ」
見ていない見てない。僕が見ているのは帳簿と母上の薬代と、エリーゼのお菓子代だけだ。
◇ ◇ ◇
極めつけは、皇帝陛下である父上からの呼び出しだった。
呼び出された場所は玉座の間ではなく、書庫だった。人払いをした薄暗い部屋で、帝国でいちばん偉い人間は、その息子をじっと見下ろして言った。
「ヴィルヘルム。お前は何を企んでいる?」
「第三皇子宮の経費削減です」
「余の前でも、ただの節約だと言い張るか?」
「はい。ただ、その途中で妙な数字を見つけました」
僕は持参した写しを差し出した。
「陛下、帝国の軍需調達費に、末尾が七でそろう不自然な請求が毎月あります。誰かが数字をわざと切り上げ、差額を抜いているのです。第三皇子宮から消えていた金にも、同じ末尾の癖がありました」
「だからなんだと言うのだ?」
「僕が企んでいることがあるとすれば、それはこの癖の主より長生きすることだけです」
父上は写しを長いこと眺めていた。それから、初めて聞く種類の声で笑った。
「自分の皇子宮の帳簿から、軍需費の穴まで嗅ぎ当てた者はお前が初めてだ。余は今、息子より帳簿が怖くなった」
「帳簿は怖くありません。怖いのは、嘘をついた数字です」
「そういうところだ」
「どのあたりでしょうか」
「父を前にして、軍費横領より端数の癖を気にしているところだよ」
違うのだが。
いや、少しだけ合っているかもしれない。
結局その日、僕は「帝室会計の公式な相談役」という、引き籠りには最悪の肩書きを頂戴して書庫を出た。おまけに翌朝から、監視だか護衛だか分からない生真面目な女騎士が一名、第三皇子宮の書庫前に立つようになった。エスメラルダと名乗ったその人は、僕が帳簿をめくるのを、燃えるような目で観察している。なんなんだ、一体。
「殿下。本日のご予定は?」
「今日は経費の締め日です。引き籠って帳簿をつけます」
「また、何かを企んでおられるのですね」
「いや、だから、経費の締め日です」
◇ ◇ ◇
夜。母上の薬湯の匂いがまだ袖に残っているころ、妹のエリーゼが僕の部屋に忍び込んできて言った。
「お兄さまがこわいひとになったって、みんな言ってる」
「怖くないよ。ほら、浮いたお金で買った蜂蜜菓子」
「わぁい。あのね、エリーゼ知ってるよ。お兄さまは、こわいひとじゃなくて、けちなひと」
「節約家と言いなさい」
妹を寝かしつけて、僕は一人、帳簿の最終頁を開く。
処刑ルートの入り口は塞ぎつつある。浪費の実態は消した。横領の経路も半分断った。あとは端数「七」の癖の主を突き止めれば、母上と妹と三人、静かに引き籠って暮らせるはずだ。
そう思いながら頁をめくった僕は、手を止めた。
最新の帳簿の末尾。昨日付けの支出承認欄に、僕の新しい印章が捺してあった。気品ある獅子を模した印章だ。
僕はまだ、この印章を一度も使っていない。登録前の確認として、新印章の登録用図案を宮内会計課、宰相府、軍需局へ一通ずつ回しただけだ。完成した印章を正式な印影として届けたことは、まだない。
「なるほど。向こうも、経理ができるわけだ」
こちとら前世だけで経理歴三十年。数字の嘘は、だいたい数字が暴く。
僕は引き出しの奥から控え台帳を取り出し、三通の控え図案を机に並べた。
「殿下」
書庫の扉の前に立っていたエスメラルダが、低い声で呼んだ。
「その図案を、なぜ三種類に分けておられるのですか?」
「偽印章の元になった図案がどこから漏れたか、獅子が教えてくれるからです」
「獅子が?」
エスメラルダは首を傾げた。僕を探るようだった視線が、ふと手元で止まった。
「殿下、手が」
「え?」
「震えています」
僕は慌ててペンを置いた。インクが、摘要欄の端に小さな黒い池を作っていた。
情けない。数字を追っている間は平気なつもりだった。だが偽印章を見た瞬間から、処刑台の夢がやけに近い。落ちてくる刃の音を、耳が勝手に思い出す。
「怖いですよ」
言ってから、しまったと思った。監視役に弱音を吐いてどうする。だがエスメラルダは笑わなかった。
「では、私が見張ります」
「監視役ですからね」
「いいえ、違います」
彼女は腰の剣に手を添えた。儀礼の動きではなかった。
「今夜からは、護衛として殿下を見張ります。陛下の命令ではありません。私の勝手です」
「……僕が本当に横領犯だったら?」
「その時は、私が最初に捕らえます」
「厳しい」
「ですが、殿下が怖がっているのは罪が露見することではありません。誰かに罪を着せられることです」
「どうして分かるんですか?」
「本当に横領した者なら、今ここで証拠を増やしません。三部署の控えを分け、台帳に残し、監視役の私にそれを見せるなど、逃げ道を自分で塞ぐだけです」
信じる、とは彼女は言わなかった。だが彼女が見張ってくれたおかげで、その夜の僕の手の震えは、少しだけましになった。
◇ ◇ ◇
三日後、父上の前で問題の支出を調べる会議が開かれた。御前会計検分、というらしい。
議題は、僕の新印章が捺された軍需局への臨時支出についてだった。これがこのまま通れば、僕が横領犯にされる帳簿だ。
呼び出されたというよりは、こちらから開かせたに近い。偽印章の疑いがある支出を、「確認が必要な支出」として宮内会計課へ回しておいたのだ。宰相府が揉み消すにせよ、僕を犯人に仕立てるにせよ、父上の前で帳簿を開くしかなくなる。
とはいえ、大理石の床に膝をついた瞬間、普通に胃が痛かった。転生して皇子になっても、偉い人だらけの会議室は苦手だ。広間の上座には父上。右手に宰相ワイドアウト。左手に第一皇子と第二皇子。壁際には、呼びつけられた軍需商人たちが青い顔で並んでいる。
そして中央の卓上に、例の帳簿が置かれていた。
「第三皇子ヴィルヘルム殿下」
宰相の背後から、痩せた会計官が進み出た。名をドルツという。宮内会計課の副官で、今回の支出を帳簿に清書した男だ。いつも指先に紙の粉をつけている。
「こちらの支出承認についてご説明を。軍需局への臨時支出、金貨七千七百七十七枚。殿下の新印章がございます」
見事な七だらけだ。もう少し隠してほしい。
父上が帳簿を見下ろしながら言った。
「ヴィルヘルム。お前が承認したのか」
「しておりません」
「お前の印章があるぞ」
「それは偽物です」
広間がざわついた。




