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第三十五話:まだ帰る気配がない

 ノアは三分ほどで戻ってきた。


 片手に、線の細い男の襟首をつかんでいた。男は顔色が悪く、靴の片方が脱げていた。逃げる途中で転んだのか、膝に埃がついている。


「第二皇子宮事務取次、ルーベン・サージェントです」


 ノアが無表情に言った。


「体調不良だったのでは?」

「どうやら虚偽のようです。かなり走れていました」

 僕の問いにノアが淡々と答えた。


 ユリウスがルーベンを見た。


「僕の副印を、使ったね?」

「で、殿下……私は、その……」

「答えは短く。()()()


 ユリウスの声は柔らかかった。柔らかいが、相手に逃げ道を与えていない。慎重に、という言葉の裏に僕は、正直に答えなければ命はないぞ、というユリウスの意志を感じた。


「使いました」

「僕の実験室の石を持ち出した?」

「はい」

「魔術院の結界石は?」


 ルーベンが口を閉じた。ノアが一歩だけ近づいた。それだけで、ルーベンの肩が跳ねた。


「き、貴族院裏のムーンライズ厩舎へ」

「何のために?」

「試験厩の隔離幕に使うと。馬疫の疑いがある軍馬を、一時的に隔離するためだと聞いております」


 馬疫? その言葉に、僕は顔を上げた。


「軍馬と言いましたか?」

「はい。北方軍馬厩から移される、特別な馬だと」

「その馬の名前は?」

「そこまでは……」


 ルーベンはそこで口を閉じた。一瞬、視線が胸元に移る。ノアはその動きを見逃さなかった。上着の内ポケットから、折り畳まれた紙片を抜き取る。


「搬送控えのようです」


 紙片を一瞥したノアが、ユリウスに渡した。ユリウスはそれを見た後、表情が変わった。


「兄上?」


 尋ねると、ユリウスがその紙を僕に手渡した。紙は汗で少し湿っていた。文字の一部が少し滲んでいた。


 【小型結界石十二個 臨時貸出】

 【用途 馬疫疑い隔離幕】

 【搬送先 ムーンライズ牧場 試験厩】

 【欄外補記 貴族院裏分厩】

 【対象軍馬 カスケード号】


 搬送日は四ヶ月前だった。それよりも、カスケード号という名に、どこか聞き馴染みがあった。


「兄上の馬だ」

 ユリウスが短く言った。


「ルドルフ第一皇子の?」

「ああ。兄上が若い頃から乗っている馬だよ。北方軍馬厩で、カスケードの名を知らない者はいない」

「それほどの馬ですか」

「第一皇子殿下の愛馬です」

 エスメラルダが言った。彼女も知っているのなら、それはもう周知の事実なのだろう。


「軍務殿でその名を軽く扱う者は、まずおりません」


「この馬は、今どこに?」

 僕が尋ねると、ルーベンは首を振った。


「私は結界石を回しただけで、詳細は存じ上げません」

「だけ、と言えばその罪が軽くなるとでも思っていますか?」


 言いながら、僕は貸出控えを見た。


 小型結界石十二個。

 白線用魔石粉。

 ムーンライズ厩舎。

 馬疫疑い隔離幕。

 対象軍馬、カスケード号。


 魔術院で見つけたムーンライズの名前が、いつの間にか第一皇子まで伸びていた。


     ◇ ◇ ◇


「副印の制度を止める。今日から第二皇子宮の事務副印は、僕の立ち会いなしに使わせない」

「承知しました」


 ユリウスはその場でノアに短く命じた。


「ルーベンの席も封じて。貸出控え、白紙の依頼書、封蝋、全部検めて」

「すでに二名を向かわせています」

「徹底的にね」

「念のため、第二皇子宮の出入口にも人を置きます」

「ありがとう」


 ユリウスは笑った。だが、目は笑っていない。


 今朝、レイチェル第五皇女は「普段のんびり屋の兄上がノア卿を連れて早歩きしている時点で、もう事件でしょ」と言っていたのを思い出した。


 それは正しかった。


 本当に、事件になってしまった。それも、かなり面倒な事件に。


     ◇ ◇ ◇


【魔術院回廊の噂話】


「聞いたか? 返却された結界石、中身が空っぽだったらしいぞ」

「縁起でもないな」

「しかも本物は、貴族院裏の厩舎に流れていた」

「厩舎?」

「対象はあのカスケード号だと」

「カスケード号といえば、第一皇子の愛馬じゃねえか」

「第二皇子の結界石で第一皇子の愛馬を隠す。それを、第三皇子が見つけた」

「皇子三人分の厄介事か」

「ああ。こりゃ、帝国の後継者争いに発展するぞ」


     ◇ ◇ ◇


 監査局へ戻るころには、僕の頭の中で、箱庭の白い線が別の形になっていた。


 橋。軍糧庫。魔術院。ムーンライズ厩舎。そしてカスケード号。箱庭なら、線を指で消せる。だが現実では、そう簡単にはいかない。


 エリーゼが僕の机に小さな白い石を置いた。箱庭用に拾ってきた小石のようだ。


「これは何?」

「おおがたけっかいせき」

「大型かー」

「十二こもよういするの、たいへんだから」

「小型で十二個もあると管理が大変ですからね」

「このおおがたけっかいせきは、カリナがかんりしてる。つかうには、カリナのきょかがひつよう」

「それは強力だね。誰も不正はできないだろうね」

 ユリウスが同意する。この兄上はまだ帰る気配がない。


 確かに、今回のことの発端は管理不足だ。きちんと管理していればこんなことにはなっていなかった。そもそも帳簿を見なければ、本物の石が消えたことにも気づかなかった。改めて、備品の管理は徹底的に行う必要がある。


 だが、悪事を働く輩が一番悪いのには、変わりはない。


「エルヴィス」

「はい」

「北方軍馬厩の軍馬管理台帳と、飼養費台帳を出してください」

「軍馬管理台帳と、飼養費台帳ですか?」

「はい。馬疫疑いで隔離された馬なら、軍馬管理台帳に隔離解除か処分の記録があるはずです。そのうえで飼養費台帳を見れば、その馬にいつまで飼葉が出ていたのかが分かりますので」


 かしこまりましたと、エルヴィスはすぐに棚へ向かった。


「徹底的だね」

 ユリウスが言った。


「徹底して悪いことは一つもありませんので」

「頼もしいね」

「兄上」

「なんだい」

「第二皇子宮の件は、まだ終わっていません」

「分かっている」

「楽しそうですね」

「楽しくはないよ」


 ユリウスはエリーゼの箱庭の中にある、白線を見ながら言った。


「ただ、君といると退屈はしない」


 退屈してほしい。心からそう思った。少なくとも僕は退屈な状況で引き籠っていたい。


 その時、エルヴィスが青い顔で戻ってきた。


「殿下」

「どうしました?」

「カ、カスケード号ですが」


 エルヴィスは軍馬管理台帳を開く。


 【軍馬カスケード号】

 【馬疫疑いとして隔離】

 【隔離確認後、処分済】


 続けてエルヴィスは、飼養費台帳を並べた。


 【飼養費計上継続】

 【特別飼葉、塩舐め石、蹄鉄交換、馬房清掃】


 記載されている隔離日は今日から数えると四か月前だった。さらに飼葉の支給日は、処分済みの記録より後に数ヶ月分並んでいた。


 隔離された直後の数日なら、飼葉が出ていてもおかしくない。だが、処分済みになった後も支給されているとなると、話が変わってくる。


 僕はしばらくの間、台帳に書かれている事実を咀嚼した。

 死んだことになっている馬が、帳簿の上で数ヶ月分の飼葉を食べている。


 どうやらこれは、ルドルフ第一皇子に知らせる必要がありそうだ。

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― 新着の感想 ―
第一皇子と第二皇子の対立関係を助長させる狙いかな?それぞれの派閥に足引っ張るやつ多すぎ問題
 こうして皇子同士の対立を煽ることで国力を割く?国としての行動スピードを落とす?のが目的なのかねぇ、  もはや内乱準備ともとれるが、黒幕がひとり或いは一派閥ならまだしも複数居たらめっちゃ面倒臭い。  …
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