二十二話:お前のおかげだ
ヤンジはその場で職務停止となった。ルドルフ第一皇子が短く合図すると、北方軍の衛兵が前に出て、ヤンジの両腕を取った。
「軍糧に手を入れた罪は、軍で預かる」
第一皇子の声に、ヤンジの顔から血の気が引いた。軍糧に関わる不正は、軍務殿の扱いになる。彼は取り調べが終わるまで、軍務牢へ送られることになるだろう。
ただ、衛兵に連れていかれる時、ヤンジは僕を睨まなかった。彼はずっと床を見ていた。言い訳を探している顔でも悪事がばれて悔しがっている顔でもない。なぜ自分だけが捕まるのか分からない。そんな表情だった。
おそらく彼は命じられた通りに動いただけなのだろう。乾ききっていない麦を受け取り、袋の口を閉じ、帳簿の数字に合わせて検収印を押した。それだけだ。だからと言って、彼の罪が軽くなるわけではない。兵糧に手を出した時点で言い逃れはできない。
今回の仕組みを作ったのはヤンジ一人ではないだろう。
麦を半乾きのまま袋に詰めた者がいる。袋を縫い替えた者がいる。三つの商会名を並べ、競争しているように見せた者がいる。検収印を押させ、支払いまで通そうとした者がいる。
帳簿上ではただの一行だ。だがその一行の裏に、何人もの手が見えた気がした。
正直、嫌になる。
軍糧庫を出ると、夕方の光が練兵場の土を赤く照らしていた。
「ヴィルヘルム」
ルドルフ第一皇子が僕の名を呼んだ。
「はい」
「お前は、俺が北方の兵に二等麦を食わせるのを嫌がると思ったか?」
「それは……」
心の声が読めるのかこの人、と驚きを隠せなかったがそれすら読まれていると思うと、何も言えなくなった。
「嫌だ」
どう答えるべきか考えあぐねているうちに、第一皇子が短く言った。
「だが、半乾きの一等を食わせる方がもっと嫌だ」
その言い方が意外だった。第一皇子の命令する口調は怖い。そこに立っているだけで、周囲の空気が二、三度低くなる。だが目の前の第一皇子は、部下を本気で大切に想っている。
「兄上」
「何だ?」
「オーバールック橋が落ちる前に、お話できてよかったです」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
第一皇子は黙り、泥のついた軍靴で石畳を一度だけ踏んだ。
「お前のおかげだ。礼を言う」
短い言葉だった。だがその一言で、この数日の僕の苦労は吹き飛んでしまった。
◇ ◇ ◇
【軍糧庫裏の噂話】
「聞いたか? 第三皇子殿下、今度は麦を炙ったらしいぞ」
「麦を?」
「炙ったら、湯気が出たそうだ」
「兵糧から湯気が出るのは、鍋の時だけでいいのにな」
「第一皇子がすごく感謝して、泣いて礼を言ったらしいぞ」
「あの第一皇子が? それは嘘だろう」
「橋の次は軍糧か。あの第三皇子、ひょっとして北方軍の胃袋まで握る気じゃないだろうな?」
「胃袋を握られたら、宮廷の黒幕どころではないな」
「ああ。そのうち北方軍は第一皇子の号令じゃなくて、第三皇子の献立で動くだろうな」
◇ ◇ ◇
その夜、監査局に戻ると、エリーゼが僕の机の前で腕を組んで待っていた。
「お兄さま。おかえりなさい」
「ただいま」
「むぎ、ぬれてたの?」
「濡れてたというか、乾いてなかった」
「かわいてなかったら、おもくなるの?」
「水分の重さで、その分重くなるね。一粒一粒は小さいけど、それが大量にあるから、重さで言えば相当な量だよね」
「おかし、へるの?」
不意にエリーゼが言った。
情報が早い。宮廷の噂話は軍の伝令より速いのではないか?
「少し、減りますね」
「どれくらい?」
「お菓子でいうと……」
僕は言いかけてやめた。これは危険な換算である。
「北方の兵がお腹を減らさずに済む、くらいです」
エリーゼは僕の目を見つめたまま何かを考えている様子だった。
それから、机の上に置いていたガレットの紙包みを僕に向けて押した。
「じゃあ、これもあげて」
「いいんですか?」
妹は包みを抱え直し、少しだけ悩んでから言った。
「一まいだけなら」
僕は、その一枚を受け取らなかった。
「気持ちだけで十分です」
「だめ。ちょうぼにつけて」
横で小さく笑うエルヴィスの声が漏れた。彼は慌てて口を押さえた。
僕は紙片を一枚取り、筆を走らせる。
【エリーゼ第六皇女殿下 ガレット一枚】
【摘要:北方軍糧応援】
「これでいいですか?」
「うん」
エリーゼは満足そうにうなずいた。
僕はその顔を見ると少しだけ胸が痛んだ。
この子を絶対に、処刑台には近づけたくない。母上も同じだ。
僕の処刑台は、僕一人分ではないのだ。
窓の近くで、エスメラルダが黙って立っていた。時折、彼女が扉に目を向ける。彼女がいるだけで、僕は安心してこの部屋で作業ができる。
エリーゼは、紙に書かれた自分の名を指でなぞる。
「これ、北の人にとどくの?」
「直接は届きません」
「じゃあ、なんで書いたの?」
僕は少し考えた。
「忘れないためです。今日、誰かがお腹を空かせないようにしたことを」
エリーゼは難しい顔をしてから、ガレットの紙包みを閉じる。
「じゃあ、わすれない」
小さな声だった。だが、その言葉に少しだけ救われた気がした。




