第二十話:嫌な予感
オーバールック橋から戻った翌朝、軍糧庫へ向かう前に、エリーゼが支出予定表の上に指を置いた。
【北方軍糧 乾燥大麦六百袋】
「お兄さま」
「どうしましたか」
「これ、おかし?」
「違います。これは兵糧です」
「ひょうろう?」
「兵士のごはんです」
「じゃあ、だいじなごはん?」
「とても大事なごはんですね」
「ふかふか?」
「ふかふかじゃないね。そうなる前のご飯」
「じゃあ、かわいてる?」
「そう。保存するために乾かしたごはんです」
「ぬれたらどうなるの?」
「濡れたら……困りますね」
エリーゼは机の端に置いていたガレットを見て、それから水差しを見た。
「おかしも、ぬれたら困る?」
「困ります。純粋に、おいしくなくなるよ」
メイド長のカリナが、そっと水差しを遠ざけた。
「実験をなさるなら食べる分ではなく端切れでなさってくださいませ。お持ちしますので」
「はあい」
エスメラルダが僕の横に立った。無言だったが、僕は時計を見て彼女が急かしに来たのを理解する。
「お兄さまも、こわいところへいくの?」
僕が立ち上がり身支度をしていると、エリーゼが上目遣いになって言った。
「できれば行きたくない場所ではあります」
エリーゼは首を傾げ少し考えたあと、机の端に置いていたガレットの紙包みを僕の方へ向けて差し出した。
「じゃあ、これ、もっていって」
「ガレットを?」
「こわくなったらたべて」
昨日、橋から戻った僕に蜂蜜菓子の箱を「ひじょうひ」と言って渡してくれた。彼女の中では、怖い場所へ赴く人に持たせるお菓子はそういう名称になるようだ。
出発前から胃が重い。ガレット一枚に妹の心配が乗る。戻ってきたカリナが、机の端に置かれた支出予定表を見て手袋を一組差し出した。
「軍糧庫は埃が多うございます。戻られましたら、お部屋に戻る前に衣服をお預かり即洗濯に回します」
「汚れる前提ですか?」
「倉庫に行って、汚れない方が不自然でございます」
嫌な指摘だったが、確かに汚れるだろうことは僕にも予想できたので、「よろしくお願いします」と予め頭を下げる。
麦は材木のように折れたりはしないし、金具のように曲がったりはしない。だが、一度袋に入れられたら、外側からは中身がどうなっているかわからない。だからこそ、現物をその目で見て確認する必要がある。
「殿下。気になる報告が一つ」
エルヴィスが支出予定表の下に挟まっていた薄い紙を抜いて僕に差し出した。
【北方保管庫 大麦腐敗報告】
「確認したところ、北方の保管庫で保管中の大麦にカビが生える報告が増えているようです。どうやら、現地の保管方法が悪いということらしいのですが」
「倉の湿気、ということですか?」
「はい。そのため、保管庫の換気改善を求める文書も添えられています」
保管庫の換気まで僕が見るべきなのだろうか。どちらにしろ、ほうっておける事案ではなさそうだ。
◇ ◇ ◇
門番が軍糧庫の扉を開けた瞬間、僕はその匂いで足を止めた。乾いた穀物の甘い匂いの中に、少しだけ湿った布のような匂いが混じっている。
「殿下?」
すぐ横に立つエスメラルダが、僕の顔を覗き込んだ。その隣にいたエルヴィスも、心配そうに僕の顔を見つめる。
「帰りたいです」
僕は口をほとんど動かさずにそう告げた。
「まだ何もしておられません」
「匂いだけで、嫌な予感がぷんぷんします」
不意に悪寒が走った。背中がざわざわと震え、鳥肌が立った。エスメラルダも感じたのだろう、勢いよく振り返り身構えた。
軍糧庫に続く廊下の遥か先に、黒い人影が見えた。その姿を見て、自分の危機管理能力が正常に働いていると逆に安心した。
「だ、第一皇子殿下」
門番の兵が裏返った声でそう言った。無理も無い。兄弟である僕でも、年に数回会う程度だ。先日会って多少の耐性はできたが、それでもその姿を見ると緊張で体が固まってしまう。ルドルフ第一皇子の背後には、黒い騎士が続いている。第一皇子護衛七人隊だ。
示し合わせたわけではない。だが北方軍糧は元よりルドルフ第一皇子の管轄だ。昨日の今日で、同じ日に同じ倉で鉢合わせるのはむしろ当然のことなのだろう。
門番の声で、倉庫の奥がざわついた。帳簿を抱えた書記が走り、袋の列の間から兵が顔を出し、誰かが慌てて腕章を直した。
第一皇子は僕をちらりと見ただけで、先に軍糧庫へ入って行った。軍靴の音が石床に響く。倉庫の中には、大麦の袋が大量に積まれていた。麻袋が列ごとに並び、それぞれに札がついている。壁際には塩漬け肉の樽もあった。天井近くの小窓から、細い光が差し込んでいて、光の筋に埃が舞っていた。
「責任者は?」
ルドルフ第一皇子の低い声が倉庫中に響く。
「ぐ、軍糧課のヤンジと申します。だ、第一皇子殿下……?」
そう言いながら、奥から男が小走りで現れた。
頬の肉が厚く、目が細い男だった。胸の前で揉み手をする仕草はやけに丁寧だったが、額にはうっすら汗が滲んでいた。
「だ、第一皇子殿下が直々にご視察とは、光栄に存じます。第三皇子殿下も、ようこそお越しくださいました」
ヤンジはそう言うと僕にも愛想笑いを振った。
「視察ではない」
第一皇子が言った。
「検分だ」
ヤンジの笑みが引き攣ったのがわかった。
「北方への軍糧でございましょうか? 北方軍糧はすべて規定通りに検収済みでございます。大麦六百袋、一袋三十キロで、総量一万八千キロ。いつでも運び出せる状態にあります。書類もこちらに」
ヤンジが部下に持って来させた帳簿を受け取る。僕は最初の頁を見た。
袋番号、重量、封印、搬出予定、検収者印。
六百袋すべてに、三十・〇キログラム、と書かれていた。
きれいだ。あまりにもきれいだ。
「エルヴィス」
僕は側にいるエルヴィスを呼んだ。
「麦袋は、全部同じ重さになるものでしょうか?」
「なりません」
エルヴィスが即答する。
「麦の乾燥具合と詰め方で、多少の差が出るのは当然です。ここに書かれているように、三十キロちょうどが六百袋続くことはまず……」
そこで、エルヴィスはヤンジの視線に気づいた。
「まず、何だ?」
ルドルフ第一皇子が低い声で尋ねた。
「まず……ありえません」
エルヴィスが言い切った。
ヤンジが大袈裟に肩をすくめる。
「優秀な納入業者でございまして。計量が正確なだけです」
「正確な業者ほど、端数は隠しませんよ」
僕は帳簿を閉じた。
「全袋検査しますか?」
エルヴィスが言った。
「全部で六百袋ございます。全量検査となりますと、北方への搬出が大幅に遅れてしまいます」
ヤンジが両手を広げ、大袈裟に言った。
「あそこの三袋と、そこの三袋、あと奥の三袋をこちらに持ってきてください。それで検査します」
僕は入り口、中央、奥の棚それぞれに積まれた麦袋を指さして言った。
「それでは偏りが……」
「無作為抽出です」
「無作為抽出?」
「ランダムサンプリングとも言います。偏りなく一部のサンプルを偶然に任せて選び出す手法です。これで全体の傾向を効率よく推測します」
ヤンジの口元が少し動いたが、笑みではなかった。




