第十九話:ひだまりの匂い
だが、ここで行かなければ完了検分の意味がない。完了検分とは、「たぶん大丈夫」を確認する場ではない。自分の目で見て、自分の足で渡り、明日からこの橋に荷馬車を通していいかを確かめる場だ。
ここで僕がうなずけば、明日から兵と荷馬車がこの橋を渡ることになる。
僕は橋の端に立った。木目は新しい。黒塗りでごまかした短材とは違う。見た感じ継ぎ目はない。大丈夫だ。
それでも、足の裏が冷たくなる。怖いのは、高さだけではなかった。
さっき、兄上の軍靴で砕けた短材を見たばかりだ。あれがこの橋に使われていたかもしれないと思うとぞっとする。ひょっとしたら指示漏れで、あの短材がどこかに使われているかもしれない。もしそれを見抜けなければ、僕が落ちる。仮に今は耐えられたとしても、ゆくゆくは荷馬車と兵と食糧が落ちるかもしれない。
だから、自分の足で確かめなければならない。この橋は安全なんだと。理屈では分かる。分かるからこそ、体は勝手に重くなる。
懐の蜂蜜菓子が小さく当たり、箱に貼られていたエリーゼの字が頭に浮かぶ。お兄さまのひじょうひ。
僕は一歩、橋へ足を乗せた。
落ちない。
二歩目も落ちない。
三歩目で、エスメラルダが当然のように隣に来た。
「近いです」
「橋が落ちたら、私が助けます」
「落ちる前提で話さないでください」
橋の中央に立ち、僕を見ているルドルフ第一皇子は笑ってはいないが、怒ってもいなかった。
不意に、ルドルフ第一皇子が右足を高々と上げたかと思うと、四股を踏む要領で思い切り橋に足を押しつけた。
「ちょっ……!!」
僕は大声を張り上げそうになった。腰がぬける思いだったが、なんとか踏みとどまった。エスメラルダが僕の背中を支えてくれていた。
「うむ。大丈夫そうだな」
ルドルフ第一皇子がそういうと、七人の護衛騎士が颯爽と橋の中央まで歩みを進め、第一皇子を取り囲んだ。
「この橋を落とさなかったのはお前だ」
ルドルフ第一皇子が、僕の目を見据えて言った。僕はエスメラルダに背を押される形で、一歩前に出る。
「いいえ。僕ではありません。北方軍と、職人の力です。僕はただ、支払いを止めただけです」
「だが、お前が支払いを止めなければ、職人は動けなかった」
「それであれば、支払いを止めた意味はありました」
ルドルフ第一皇子は少しだけ目を伏せた。
「お前の言葉だけを信じたわけではない」
「はい」
「だが、この橋は信じよう」
僕はうなずいた。ルドルフ第一皇子を納得させたのは、実際に直ったこの橋だ。入れ替えられた補強梁、割れなかった床板、そしてここへ来るまでに動いた兵と職人。その全てがあったからこそ、この橋は落ちなかったのだ。
◇ ◇ ◇
その場で、完了検分の記録を整えることになった。
エルヴィスが確認表を開き、ライアン副官が補修箇所を読み上げる。正規材に入れ替えた補強梁、交換済みの床板、冬前に必要な定期補修の予定などなど、橋そのものについては、完了として扱っていいだろう。
ただし、黒樺材木商会への支払いは停止のままだ。差し戻された短材は証拠として監査局が保管し、物資備品管理局の七番印については、使用記録を追加提出させる。
そこまで記録したところで、エルヴィスの持つ積荷予定表が風にめくれた。
麦。塩漬け肉。薬箱。
目に入ったのは、このオーバールック橋を通るはずだった荷の数々だ。
「兄上。一つお願いがあります」
橋を降りようとしたルドルフ第一皇子を呼び止める。
「なんだ?」
「軍糧庫を確認させてください」
僕が言うと、ライアン副官がこちらを見た。何か言われると思っていた顔だった。軍糧庫は帝都北門近くにある。北方軍糧はそこから積み出され、オーバールック橋を越えて北方へ送られる。
「軍糧庫だと?」
ルドルフ第一皇子の眉が上がる。僕はエルヴィスから積荷予定表をもらうと、そこに記載されたリストを第一皇子に見せた。
「オーバールック橋を通る予定だった荷の中に、麦と塩漬け肉があります。橋材でこれだけ不正があるなら、食糧の検収や納品にも同じようなごまかしがあるかもしれません」
橋は直った。だが、橋を渡る荷まで正しいとは限らない。
「お前はどこまで軍に口出しをするつもりだ?」
「口は出したくありません。できれば部屋からも出たくありません」
「ならばなぜ、そんな指摘をするのだ」
橋の下から、突風が吹き上げた。
僕の理想の一日は第三皇子宮の中で終わることだ。
朝に帳簿を締め、昼に母上の薬代を確認し、夕方にはエリーゼと焼き菓子を半分に分け、夜は誰にも邪魔されずに自室で本を読む。そのささやかな予定をいつか実現させるために、今、僕はこの北方の橋の上にいる。
「僕が死ぬと、母上とエリーゼも巻き込まれます」
僕の言葉に、ルドルフの表情が一瞬曇る。
「僕はそれを避けたいだけです。目についた不正を正さないと、それがいつか巡り巡って僕のせいにされるんです。橋の事故や食糧の不正も、止められるものは全部僕が止めます」
ルドルフ第一皇子は、僕から目をそらしたあと周囲の護衛騎士に向かって言った。
「軍糧庫の封印と鍵を用意させろ。戻り次第、検分する」
ハンスが短く合図すると、護衛騎士の一人が走った。
◇ ◇ ◇
【北方補給路の噂話】
「聞いたか? 第一皇子殿下と第三皇子殿下がオーバールック橋の上でやり合ったらしい。第一皇子は軍靴で偽物の橋材を踏み砕き、第三皇子はその場で支払い停止の書類を叩きつけたんだと。お互い、剣と帳簿で一歩も引かなかったそうだ。いや、剣は抜いてないらしいが、そこはまあ、橋の上の話だからな。勝負は五分五分。橋は落ちず、材木屋は落ちた。しかも第三皇子はそのまま軍糧庫の鍵まで要求したらしい。どこまで軍に口出しするんだって、第一皇子はお冠だったらしいが、渋々その要求を受け入れたんだと。黒幕を探しに来た人が、一番黒幕みたいな顔をしていたらしい。もう兵の間じゃ、本当の黒幕は第三皇子なんじゃないかって噂だ」
◇ ◇ ◇
それから二日かけて監査局に戻ると、エリーゼが僕の机の上で小さな布を畳んでいた。その横でメイド長のカリナが、畳み終えた布を数えている。
「これは何ですか?」
「殿下が握り潰したハンカチの替えです」
「握り潰してなんていませんよ」
僕がそう言うと、カリナが手を差し出した。僕は胸にしまったハンカチを、カリナに手渡した。
「皺の深さが、第一皇子殿下の怖さを物語っております」
カリナが言った。まさかハンカチの皺まで見られるとは思っていなかった。
「お兄さま、おかえり」
エリーゼが駆け寄ってくる。
「ただいま」
「ルドルフお兄さま、こわかった?」
「怖かったです」
エリーゼは真剣な顔で、小さな紙箱を僕に差し出した。
「ひじょうひ、ついか」
「追加かー。これはまた、別会計かな?」
「しひだからいいの。あと、だっこして」
「なんで」
「お兄さまがこわかったぶん、エリーゼが半分もらう」
エリーゼが箱を持ったまま両手を広げている。
「助かります」
僕はエリーゼを抱き上げた。軽い。
左手でエリーゼを抱え、右手でエリーゼに手渡された箱のふたを開けた。蜂蜜菓子が入っていた。それを手に取ろうとしたところで、エスメラルダに横から押さえられた。
「殿下、夕食前ですよ」
「少しくらいいいでしょう。大人ですよ僕は」
「その発言は、教育上よろしくありません」
エスメラルダがエリーゼをちらりと見て言った。
僕はエリーゼを抱え直し、紙箱を机の端へ置いた。
妹の髪から、ひだまりのような匂いがした。窓辺で干されていた毛布のような、あたたかな匂いだ。北へ向かう馬車で嗅いだ冷たい匂いが、そこで少し遠のいた。帰ってきたのだと、頭より先に体が理解した。




