表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/32

第十八話:第一皇子ルドルフ

 帝都北門を出て、軍用道路を北へ約八十キロ。オーバールック橋は、馬を替えながら進んでも馬車で一日半かかる場所にあった。


 一日目は夕方前に宿駅へ入り、翌朝また馬車に揺られる。北方と呼ぶにはまだ入口らしいが、僕にとっては十分すぎる遠出だった。帝都の城壁が背後に消え、田畑がまばらになり、道端の草が低くなる。景色が変わるたび、僕の帰宅願望が徐々に強くなっていくのがわかる。


 窓の隙間から入る風は、冷たい土と乾いた草の匂いがした。まだ雪は積もっていないのだが、鼻の奥には少しだけ冬の匂いがした。人の暮らしから少しずつ離れていくような、寂しい匂いだった。


 その匂いが徐々に強くなる。そのたびに、昨夜夢に現れた濡れた石畳の冷たさを思い出す。北へ向かっているだけなのに、処刑台にも近づいているような気がして、落ち着かなかった。


 僕が乗ったのは、監査局の実務馬車である。まあ、揺れる揺れる。書類箱も、僕の胃も。


 エルヴィスは向かいの座席で書類箱を抱え、エスメラルダは馬車の左側を騎乗で並んでいた。護衛としては、その方が周囲を見やすいらしい。馬に乗る彼女の凛とした姿を見て、改めて彼女は戦士なのだと思った。


 第一皇子殿下の慰問用儀礼馬車は、僕らより少し先に橋の北側へ着いていると聞いていた。黒塗りの車体に銀の紋章、前後には騎馬護衛。見るだけで維持費の摘要欄が頭に浮かぶ種類の、堅牢な馬車である。


 オーバールック橋は、北方補給路の谷に架かっていた。


 石造りの橋脚と鉄桁の上に、黒松の床板と補強梁が渡されている。谷底から吹き上げる風は冷たく、橋の下では細い川が白く泡立っていた。


 遠くに来たなと思った。しかも、かなりの僻地である。僕はできるだけ橋の中央を見ないようにした。


「殿下、足元をご覧ください」

 エスメラルダが言った。


「見たくありません」

「検分です。このために、長い間馬車に揺られてきたのですよ」

「いや、もうこのまま帰ってもいいですよ、僕」


 エルヴィスが補修記録と現物確認表を抱えていた。紙が風にあおられ、バタバタと音を立てる。彼の細い腕は小刻みに震えていた。


 北方軍補給隊のライアン・ビヴァル副官が、橋の脇で待っていた。濃い灰色の外套には泥の跳ねがつき、目の下には薄い隈があった。おそらく、昨夜はほとんど寝てないだろう。


「ライアン副官。橋の状況は?」

「契約で問題になっていた補強梁は、すべて正規材に入れ替えました。床板も危険なものは交換済みです。荷馬車を通しても問題ありません」

「つまり、今回の補修範囲は完了ですね」

「はい。ただ、橋そのものが古いので、冬が深くなる前にはさらなる補修対応が必要になりますが」


 正直な報告は好きだ。まだ安心はできないが、信用はできる。


 橋の向こうで、儀礼馬車の扉が開いた。


 銀の紋章をつけた騎馬護衛が、音もなく左右へ割れる。北方軍の兵たちの話し声が消え、槍の石突きが地面に揃えられた。号令はない。ただ、その場の空気が一瞬で変わった。


 その中心から、ルドルフ第一皇子が歩いてくる。


 大きい。


 僕がまず抱いた感想はそれだった。


 遠目に見るよりも、近づくほど大きく見える。背が高いだけではない。肩幅があり、黒い軍服の上からでも、鍛えられた体の厚みが分かる。北方の風を受けても、外套の裾が少し揺れるだけで、本人の体はまったく揺れていなかった。


 短く整えた金髪の下で、灰色の目がこちらを見た。睨んでいるわけではない。だが、見られた側が勝手に姿勢を正してしまう目だった。


 これが第一皇子だ。これが帝国の長子で、次期皇帝候補の筆頭。そう納得させられるオーラが、その体から滲み出ていた。


その背後には、七人の騎士がいた。


 全員が同じ黒い外套をまとい、銀の胸章をつけている。だが儀礼用の飾りには見えなかった。橋の幅、兵の位置、谷側の柵、こちらの退路。そのすべてを最初から計算して立っているように見える。


 先頭にいたのは、灰色の髪を短く刈った騎士だった。ただそこにいるだけなのに、周囲の兵の緊張感がこちらにも伝わって来る。


「あの騎士は?」

 僕は小声で隣のエスメラルダに尋ねた。


「ハンス・ドブラッツ卿です。第一皇子護衛七人隊隊長」

「七人隊?」

「第一皇子殿下には七人の精鋭護衛がつきます。飾りではありません。第一皇子の命令があれば、万の軍隊にも平気で乗り込み戦果を上げる実力の持ち主たちです」


 ハンスが一度視線を流しただけで、近くの兵たちが一斉に姿勢を正す。


 ルドルフ第一皇子が僕の前で立ち止まる。


「ヴィルヘルム」

「お時間をいただき、ありがとうございます」

 僕は深々と頭を下げた。隣のエスメラルダも、流石に頭を下げていた。


「報告しろ。なぜ北方補給路を止めた?」


 最初の一言から、その屈強な軍靴で足の甲を踏まれたような圧を感じた。


「止めたのは、黒樺材木商会への支払いです。補給路ではありません」

「現場は止まりかけた。なぜそんなことをした。端的に説明しろ」

「偽物を通せば、橋ごと落ちると判断したからです」


 ルドルフ第一皇子の目が細くなる。


 背後の護衛騎士たちの視線が僕に集まる。一気に僕の胃が縮んだ。


「帳簿の話か?」

「現物の話です」


 僕が合図すると、ライアン副官が監査局の前庭で折れた黒塗りの短材を運び込んだ。中央から割れたその木材には、古い釘穴と腐った白い木肌が見えていた。


「物資備品管理局からオーバールック橋へ送られ、現地で差し戻した補修材です」

「差し戻し?」

「帳簿上は継ぎなし8メートル材7本でした。ですが実際には、短材を黒く塗り、鉄板でつないだ紛い物が届いたのです」


 ルドルフ第一皇子は割れた木材の前にしゃがみ込み、黒い樹脂の割れ跡をその太い指でなぞる。


「現場の判断か?」

「はい。現場で差し戻し、抗議書を出しています。物資備品管理局はそれを検収済みと返しました」

「検収者は?」

「物資備品管理局のベラウム局長です」


 ルドルフ第一皇子の視線が僕の背後にいたエルヴィスに向いた。


「お前は物資備品管理局の者だったな?」

 僕はエスメラルダと目が合った。ルドルフ第一皇子が、帝室の管理局とはいえ一介の書記官であるエルヴィスを認識しているとは思わなかったからだ。


「は、はい。いえ、えーと、元、でございます。わ、私は現在、第三皇子殿下の監査局で臨時書記を……」

「なぜ今まで黙っていた?」


 エルヴィスの唇が急に白くなる。


 責める声ではなかった。だが、第一皇子の声は、話すものに圧倒的な威圧感を自然と与えてしまう。相手はまるで、抜き身の刃をその喉元に突きつけられていると感じるほどに。


 エスメラルダが半歩前に出た。


 剣を抜くわけではない。エルヴィスとルドルフ第一皇子の視線の間に、ほんの少しだけ肩を入れる位置だった。ルドルフ第一皇子の気に反応したのだ。


「兄上」


 僕も一歩前に出たが、エスメラルダに比べ少し遅れた。情けない。


「彼を責めるなら、僕も同じです。僕も処刑される夢を見るまで、自分の帳簿すら見ていませんでした」

 あたりがしんと静まり返った。


「あ」

 言い方を間違えた。と気づいたころには遅い。


「処刑?」

 ルドルフ第一皇子が怪訝な表情を浮かべて言った。


「すみません。たとえばの話です」

「お前は、比喩で青い顔をするのか?」


 ルドルフ第一皇子は足元に置かれた割れた短材の上に、軍靴の踵を乗せた。

 ぎし、と木が悲鳴を上げた。


 ルドルフ第一皇子が体重をかけると、短材はあっけなく砕けた。

 兵の一人が息をのむ音が聞こえた。


「こんな端材を、橋の補修に使うつもりだったのか?」

「はい。帳簿上では、もう使われたことになっていました」


 ルドルフ第一皇子は足を木材の上からどけた。


 砕けた木片を見下ろす目が暗い。握り込まれた拳が、みしみしと音を立てていた。


「ライアン」

「はっ」

「今の橋の状態は?」

「こちらで手配した材木で補強済みです」


 ルドルフ第一皇子は、何も言わずに橋へ足を踏み出した。


 軍靴が新しい床板を踏み、重い音がした。だが、橋は鳴かなかった。


 一歩、二歩。ルドルフ第一皇子は橋の中央まで歩き、そこで足を止めた。

 谷風が外套を揺らす。僕は見ているだけで肝が冷えた。


「ヴィルヘルム」

「はい」

「こっちに来い」


 一番嫌な指示が来た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
うっかりであっても出てくるような言葉かな? 緊張する相手で一言一句言葉を選ぶ気で構えている状況のはず。 都合のためにキャラを動かしている印象になってしまうのが残念。
「彼を責めるなら、僕も同じです。僕も処刑される夢を見るまで、自分の帳簿すら見ていませんでした」 帳簿を見るのはまともでも、それ以外(発言)はとても迂闊なのは興が削がれますね。 いづれ主人公は「数字は嘘…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ