第十七話:お兄さまのひじょうひ
オーバールック橋の完了検分へ向かう朝、エリーゼは僕の袖をつかんで離さなかった。
「お兄さま、ルドルフお兄さまはこわい?」
「怖いです」
僕が即答すると、机で作業をしていたエルヴィスが筆を落とした。
「殿下。そこは怖くありません、と言ってください」
エスメラルダが少しだけ眉を動かして言った。
「嘘はよくありません」
第一皇子ルドルフ。
帝国の長子で幼少期から帝王学を叩き込まれ、武芸も軍務も超一流の、次期皇帝候補筆頭である。北方軍からの信頼も厚く、兵站と軍務に関わる者なら、その名を聞くだけで背筋を正す。おまけに婚約者は帝国一の資産家の娘だ。その実家は鉱山を持ち、商船を動かし、帝都の倉庫街にも強い影響力を持っている。つまりルドルフ第一皇子は、軍だけでなく金と物流まで味方につけている。帳簿係としては、味方なら頼もしく、敵なら胃が痛くなる相手だった。
帝国再建RPG『プラチナ・レガリア』では、第一皇子ルドルフは軍と秩序で帝国を立て直すルートの中心人物だった。北方軍、補給路、砦、兵站。彼を選べば王道の戦記になり、選択を誤れば帝国は硬い軍事国家へ傾いていく。
プレイヤーから見れば、最も有力な攻略ルートだ。
僕から見れば、処刑ルートで僕を断罪する側にいた兄だ。
そのせいか、昨夜の処刑台の夢には、ルドルフ第一皇子を思わせる軍靴の音まで混じっていた。
正確には誰の足音かまでは分からない。なぜなら僕の首は処刑台のギロチンに固定されていたからだ。足音はこちらへ来るのではなく、処刑台の前で止まった。僕を助けるためではない。裁きを見届ける距離まで来ただけだと、瞬時に理解した。
処刑台の夢はまだ消えていない。むしろ、僕が帳簿をめくるたびに、細部だけ鮮明になっていく。
会いたくない。
できれば「面談不要」と手紙を書いて済ませたい。
前世でいちばん消耗した仕事は数字を直すことではない。数字を直すために、怒っている部長や笑っている役員や、何も聞いていないのにただうなずいている本部長の前へ出ることだった。
偉い人との面談は、苦痛でしかない。
「殿下」
エスメラルダが扉の横で言った。
「今日の目的は、第一皇子殿下との面談ではありません」
「は?」
「今回の目的は、橋の修繕の完了検分です。橋が安全に渡れる状態かを確認し、黒樺材木商会の短材ではなく、北方軍が入れ替えた正規の補強梁で直したのだと記録するのが目的です」
目的をそこまで明確にされると、逃げる理由を作りにくい。
今回の目的は、第一皇子に会いに行くのではなく橋が直ったかどうかを確認するためのもの。そう考えれば、少しだけ気分がましになった。本当に少しだけだが。
「お兄さま」
「はい」
「おかしもっていく?」
「お菓子?」
「えんそくみたいなもんでしょ?」
なるほど。道中を楽しめ、ということか。だが、断じて遠足というほど気楽なものではない。
エリーゼは小さな紙箱を差し出した。
中には薄いガレットが二枚と、小さな蜂蜜菓子が一つ入っていた。
箱のふたには、彼女直筆の紙が貼られていた。
【お兄さまのひじょうひ】
その横から、メイド長のカリナが小さな包みを差し出した。
蜂蜜菓子ではない。折り畳んだハンカチと、薄い革手袋だった。
「これは?」
「橋の検分では、木屑や樹脂がつく可能性がございます。殿下は緊張なさると紙を強く握られますので、手巾がないと書類に汗が移ります。それを防ぐためのハンカチと手袋になります」
「僕の癖をそんなに細かく把握しないでください」
言われて確かに、あったらとても助かると思ってしまった。
「この第三皇子宮の帳簿より、殿下の思考の方が分かりやすうございます」
悔しいが、言い返せなかった。
僕はため息をつきながら、エリーゼとカリナからの差し出しを受け取る。蜂蜜菓子を一つ懐に入れ、割れそうなガレットは置いていくことにした。
エルヴィスが何か言いたそうな顔をしたが、見なかったことにした。これは経費ではない。妹から兄への差し入れで、僕の精神を少しだけ落ち着かせるための私物である。帳簿にはもちろん記載不要である。




