第十話:お兄さまのけちなぶしょ
監査局の扉に、看板がかかった。
【帝室会計監査局】
字は立派、板も立派だ。つい先日まで水路改修局の倉庫に眠っていた古い板を削って作ったので、材料費はほぼゼロである。セオ薬師長にお願いして書いてもらった。彼に頼む仕事ではない気もしたが、台帳の文字が美しかったのでお願いした。正解だった。
ただし、その立派な看板の右下に、小さな紙が貼られていた。
【お兄さまのけちなぶしょ】
「エリーゼ」
「はい」
妹は両手を後ろに回したまま、まっすぐ僕を見上げた。隠している指先に、糊がついているのが見えた。
「これは何ですか?」
僕は看板に貼られた紙を見ながら言った。
「かんばんです」
「看板?」
「お兄さまが、けちなことをするぶしょだとわかるように」
「それは監査局の正式名称ではありませんね」
「でも、わかりやすいほうがいいってこえもありますよ」
「誰がそんなことを言ってますか?」
「エリーゼさんです」
強い。理由が強すぎる。そう自信満々に言われると、僕は何も言えなくなる。
紙の下には、さらに小さな字があった。
【まだふたり】
あと一人はもちろんエスメラルダのことだろう。だが気になるのは【まだ】という文字だ。
「まだということは、増える予定があるってこと?」
ちなみに、僕の中にその予定はない。人員は即人件費、コストになるからだ。
ただ、支障はもう出ていた。
机の左には薬草備蓄庫からの確認依頼、右には帝室物資備品管理局へ出した原本閲覧依頼の控え、扉の外では、受領印を待つメイドが咳払いをして待っている。
受領印を押すだけなら一秒で済む作業だ。そう思う者は多い。前世でもそうだった。
だが実際には、受け取った書類に不備がないかを確認し、番号を振り、控えに日付を書き、どの棚へ入れたか記録し、あとで確認しやすいようにしなければならない。
それは全部、僕の仕事だ。
「だって、お兄さまだけだと、すぐにおへやにかえるでしょ?」
「僕にだって帰る権利はありますよ」
「じゃあ、かえらないひともいるんじゃない?」
確かに、僕が部屋に帰ったら業務が止まる。僕が本を開いている間、監査局は止まっている。かといってエスメラルダに書記仕事まで任せるわけにはいかない。彼女は僕の護衛であって、僕の代わりに帳簿を見る人間ではない。
僕はエリーゼが貼った紙を剥がそうとしてやめた。糊がもう乾き切っていて、無理に剥がすと木目が荒れそうだったからだ。備品の扱いとしてよろしくない。
「あとで剥がしますよ」
「きょうだけは、そのままにしておいてほしいな」
エリーゼが潤んだ瞳で僕を見上げる。
「……今日だけだよ」
エリーゼは勝った顔をした。負けた気しかしないのが問題だ。
その後ろで、メイド長のカリナが小さな盆を持って立っていた。
盆の上には濡れた布巾と乾いた布巾が一枚ずつ、どちらも端がきれいに折られていた。
この帝国に宦官制度はない。皇族の身の回りと内側の用向きは、帝室侍女局、通称メイド局が取り仕切る。皇帝陛下の側には帝室侍女局の本局、第一皇子宮には第一侍女室といった具合に、各宮に侍女室が配置される。僕の第三皇子宮にあるのが第三侍女室で、カリナはそこの室長だ。僕らは普段、彼女のことはメイド長と呼んでいる。僕らの衣服、食事、来客控え、母上の薬湯、エリーゼの外出予定などなど、この宮の内側については、たぶん僕の帳簿よりも正確な情報が、彼女の頭の中に入っている。
「カリナ、それは?」
僕が盆の上に乗った二枚の布巾を見ながら言うと、カリナがエリーゼに視線を向けて言った。
「看板についた糊を落とすための布巾でございます。エリーゼ様、工作は貼って終わりではありません。汚したところを拭くまでが工作です」
「カリナ、そこまでいわないで」
「残念ですが、そこまでが後始末でございます」
カリナは静かに答えた。声は柔らかいのに、エリーゼに逃げ道を与えない。
「布巾は古布を裂いたものです。追加費用は発生しておりません」
僕の視線に気づいたカリナが言った。
「さすがですね」
「恐れ入ります。それと、第三皇子宮に残っていた古い受払控えを一冊、お持ちしました。帝室物資備品管理局から来る台帳と照らす時に、お役に立つかもしれません」
カリナの背後にいた別のメイドが、両手で冊子を差し出した。その表紙は古く、角が丸くなっている。中を開き確認すると、控え用紙には何度もめくられた手触りがあった。ここ数年の、第三皇子宮における備品の購入数、廃棄数などが事細かに記されていた。
カリナには何も伝えていない。おそらくは僕宛の書類を見て、用意したのだろう。優秀だが、同時に優秀すぎて少し怖くなる。
エスメラルダは看板に貼られた紙を黙って見つめていた。表情はいつも通りなのだが、ほんの少しだけ、肩が揺れている。彼女との付き合いもそこそこ長くなったので、今彼女が何をしているのかがわかるようになった。彼女は無表情のまま笑っているのだ。
「笑いましたね」
「いいえ」
「護衛が嘘をついてもいいんですか?」
「職務上、必要な場合は」
「エリーゼを手伝いましたか?」
「と言いますと?」
「エリーゼの身長だとこの看板に紙を貼り付けるのは不可能なんですよ。踏み台か、もしくは誰かに抱えられでもしない限り」
そう言って僕は、エスメラルダを見つめる。エスメラルダは視線を逸らし、ちらりとエリーゼを見た。エリーゼは<だまってて>と口だけを動かした。
「エスメラルダ」
僕が念を押すと、エスメラルダはただ黙って頷いた。ただ、無表情のまま肩が揺れている。
第三皇子という肩書きから、敬われ距離がありすぎても嫌だがここまで蔑ろにされるのはどうかと思う。僕は諦めて今日の業務を消化するため、席につく。
昨夜も、処刑台の夢は見た。
以前より夢の輪郭は鮮明になっていた。燃える松明を反射させる濡れた石畳に、手首に食い込む縄。広場の端で兵に囲まれて槍の刃先を突きつけられている母上と、泣きながら叫ぶエリーゼ。
目が覚めた時、僕の指先は冷たくなっていた。しばらくの間、夢と現実の区別がつかず震えていた。指先の痺れはまだ微かに残っている。少なくとも、薬草の不正をひとつ潰したくらいで消えるほど、処刑台の呪縛は弱くなかった。
一日でも早く、真相を解明する必要がある。昨日の間に、僕は帝室物資備品管理局へ管理台帳の原本閲覧依頼を出していた。僕は蜂蜜菓子の缶からペンを取り、メモ用紙にこれまで解決した不正会計を整理した。
【監査局の机、薬草備蓄庫の分銅、ハクシカ薬舗の月華白草】
三つとも備品だ。必然的に全て同じ方向へ矢印が向く。
帝室物資備品管理局だ。
帝室物資備品管理局は帝国中の机、棚、分銅、薬草、橋材などの備品を管理している役所だ。全ての備品はこの部署を経由して動く。ここの帳簿が正しければ問題ないが、汚れていれば目も当てられない。残念ながら、おそらくは後者だ。
管理台帳の原本閲覧依頼は出している。あとは向こうの出方を待つまでだ。いくら面倒でも、第三皇子直々の依頼は無碍にはできない。おそらくは数日の間に僕の手元に原本が届くはずだ。
その予定なので、僕は今日、午前中はここで溜まっている業務を処理し、昼には母上の様子を見て、午後は閉局札を出して自室に籠り歴史書を読む予定だ。完璧なスケジュールである。
だが、そんな平和な朝は五分で終わった。




