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第一話「異世界の扉とうるさい小僧」

 俺の名は熊五郎。

 魔熊と呼ばれる一族の、まあ言ってしまえば末っ子だ。

 親父は世界を救った英雄で、姉貴と兄貴たちはそろいもそろって優秀で、俺だけがどうにも凡庸らしい。魔法の才能は「初歩レベルで頭打ち」と師匠に言われ、戦闘センスは「悪くはないが突出もしていない」と親父に評され、一族の宴のたびに「熊五郎はいつになったら……」という視線を全身で浴びてきた。

 だから俺は旅に出た。

 遺跡潜りを繰り返していたのは鍛錬のためもあったが、正直に言えば、あの家から遠ざかりたかっただけかもしれない。

 そして俺は見つけてしまった。旅の扉と呼ばれる転移装置を。

 古代文明の遺物で、特定の期間だけ別の世界に繋がるという代物だ。起動させた瞬間、俺は少しだけ考えた。元の世界に戻るべきか、と。

 ……三秒で結論が出た。

 行くか、と。

 どうせ帰っても、また兄貴たちと比べられるだけだ。それなら知らない世界で、誰とも比べられずに生きるほうがずっとましだ。

 こうして俺は扉に飛び込んだ。


 最初に気づいたのは、土の匂いだった。

 次に、木の葉が風に揺れる音。そして鳥の声。

 目を開けると、深い森の中にいた。

 木々は見上げるほど高く、枝と枝が絡み合って空を半分隠している。木漏れ日が地面に斑模様を作り、どこかで小川が流れる音がする。

 悪くない場所だ、と俺は思った。

 空気が旨い。元の世界よりも澄んでいる気さえする。

 俺は立ち上がり、まず己の体を確認した。四本の足、分厚い毛皮、鋭い爪。転移の影響で体がどこかおかしくなっているということもなさそうだ。前足を地面につけた状態で肩までの高さは大人の人間の胸ほどある。体長は頭から尻尾の付け根まで優に二メートルを超える。我ながら立派な体格だと思う。

 さて、と俺は辺りを見回した。

 まずはここがどこなのかを把握しなければならない。知的生命体を探して話を聞くのが手っ取り早いが、その前に—・・・

 鼻が何かを捉えた。

 獣の匂いだ。しかも、どことなく懐かしい。

 俺は匂いを辿って茂みを抜けた。そこにいたのは、熊だった。

 ただし、小さい。

 体長が俺の半分くらいしかない。黒い毛並みに胸のあたりに白い模様がある。丸々とした体型で、のそのそと地面を歩きながら何かを探っている。

 (随分と小柄な熊族だな)

 俺は少し首を傾げた。我が一族の血縁にも体格差はあるが、ここまで小さいのは幼子くらいのものだ。もしかして子供か?

 試しに念話を飛ばしてみた。

 念話は俺が使える数少ない魔法のひとつで、言葉の壁を越えて意思疎通ができる。異世界の生物相手でも基本的には通じるはずだった。

 『やあ。ここはどのあたりだ? 俺は旅人でな、少し道に迷っている』

 黒い熊がぴたりと止まった。

 鼻をひくひくさせてこちらを向く。そして俺を見上げ——。

 『……腹、減った』

 俺は黙った。

 『腹、減った。腹、減った』

 繰り返している。

 『いや、そうじゃなくて。ここがどこかを聞きたいんだが』

 『腹、減った』

 『聞いてるか?』

 『……でかい。食えない。腹減った』

 黒い熊は俺への興味を早々に失ったらしく、再び地面をうろつき始めた。

 俺はしばらくその背中を見つめた。

 念話が通じないわけではない。返答はある。ただ、返ってくる言葉が「腹が減った」と「食う」だけだ。それ以上の概念を持っていないらしかった。

 (知恵が、ない)

 ない、というより低い。極めて低い。この熊は本能で動く獣で、俺の一族のような知性を持っていないのだ。

 当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。元の世界の魔熊族が特別なのであって、どこの世界でも熊が言葉を解するわけではないだろう。

 わかってはいる。

 わかってはいるのだが、なんとなく、傷ついた。

 同族だと思って話しかけたら「腹減った」しか返ってこないというのは、思ったより堪えるものがある。

 俺は気を取り直して踵を返した。

 (とにかく、話の通じる生き物を探すか)


 森を歩くこと、どのくらいだろう。

 日が傾き始めた頃、木々の密度が薄くなってきた。遠くに人の気配を感じる。煙の匂いもする。集落でもあるのかもしれない。

 俺は慎重に進んだ。

 人間というのは、どこの世界でも大抵、見慣れないものを恐れる。いきなり森から巨大な熊が現れたら、矢でも槍でも飛んでくる可能性がある。先に様子を探るべきだ。

 木の陰から覗いてみると、田畑が広がっていた。

 その向こうに家々が並んでいる。屋根の形が独特だ。俺の知っている建築様式とは違う。材木と藁で作られた、簡素だが趣のある造りだった。

 人間の姿も見える。衣服の様式も見覚えがない。

 (異世界だ、間違いなく)

 当然ではあるのだが、改めて実感が湧いた。俺はとうとう元の世界とは異なる場所に来てしまったのだ。

 感慨に浸っていたら、別の声が聞こえた。

 森の縁、俺がいる方向とは少しずれた場所から、誰かが走ってくる音だ。足音が軽い。体が小さいか、あるいは足が速いか。

 俺は音のする方へ移動した。

 茂みの向こうから、少年が飛び出してきた。


 年の頃は十四か五か、そのくらいだろう。

 細身だが体幹がしっかりしている。動きに無駄がない。裕福な家の子らしく衣服はそれなりに整っているが、泥がはねて裾が汚れていた。きっとここに来るまでかなり走り回っていたのだろう。

 少年は荒い息をつきながら木の幹に背中を預け、来た方向を振り返った。

 口から短い言葉が漏れた。意味はわからない。だが声の調子からして、やれやれとか、上手くいったとか、そういう類の呟きだろうと俺は見当をつけた。

 次の瞬間、少年は満足そうに笑った。誰かから逃げてきたらしい。

 その笑顔が、なんというか——妙に堂々としていた。悪さをした子供の笑いではなく、計画通りに事を運んだ者の笑いだ。

 少年はひと息ついてから、何気なく視線を横に向けた。

 そして、俺と目が合った。

 沈黙。

 少年は固まった。目が丸くなって、口が半開きになって、全身が石になったように動かなくなった。

 俺は待った。

 悲鳴を上げて逃げるか、それとも気を失うか。大抵の人間はこの段階でどちらかをやらかす。俺はそれを見越して少し後ろに下がり、威圧感を減らそうとした。

 ところが。

 少年は、じりじりと、近づいてきた。

 何かを言いながら近づいてくる。意味はわからないが、声のトーンは恐怖より好奇心の色が強かった。視線が俺の全身を舐めるように動いていて、まるで珍しい宝を前にした子供のようだ。

 恐怖が顔にない。正確には、恐怖はあるだろうが、それを上回る何かが少年の足を前に進ませていた。

 好奇心、だ。

 俺は内心で少し笑った。これは面白い人間かもしれない。

 少年が手を伸ばしかけたところで、俺は念話を飛ばした。

 『触る前に聞いていいか』

 少年が飛び上がった。

 文字通り、地面から跳んだ。後ろに三歩下がって、腰の辺りに手をやった。小さな刀を佩いているらしい。

 何か叫んでいる。おそらく「喋った」とか「声が聞こえた」とか、そういう意味だろう。顔が驚愕一色だ。

 『声に出しているわけではないが、まあそういうことだ。驚かせてすまない』

 少年がはっと動きを止めた。俺の念話が頭に届いたのだろう。しばらく口をぱくぱくさせてから、おそるおそる口を開いた。

 言葉の意味はまだわからない。だが念話を使えば、言葉の意味など関係ない。意思が、概念が、直接伝わる。少年が「本当に声が聞こえるのか」と確かめているのが、俺にはわかった。

 『届いているだろう? 俺の言葉が』

 少年は目を丸くしたまま、こくりと頷いた。

 それから息を整えて、ゆっくりと緊張を解いた。刀から手を離し、改めて俺の全身を見渡す。

 念話を通じて少年の驚きと興奮が伝わってくる。「でかい」「こんな熊は見たことがない」「茶色い」——言葉ではなく感覚として、少年の思いが流れ込んでくる。

 『そうだな、俺は確かにでかい。お前のいう「この辺の熊」とやらとは別の種類らしい』

 少年の念が返ってきた。「別の世界から来た」という俺の言葉をすでに理解し、それを面白いと感じている。頭の回転が速い。

 『俺の名は熊五郎だ。お前は』

 少年は自分の名を念じた。

 吉法師。

 『吉法師。覚えた』

 「なあ、熊五郎」

 吉法師は声に出した。念話が通じているとわかった今、あえて声で語りかけてくる。その声が念話と重なって、今度は意味がわかった。

 「俺と来い」


 即答はしなかった。

 吉法師の申し出を断る理由も特にないが、かといってすぐに頷くのも癪だった。それに——少しだけ、考えた。

 元の世界のことを。

 扉を潜る前、一瞬だけ振り返った遺跡の入り口。その向こうに続いていたはずの帰り道。親父の背中と、兄貴たちの笑い声と、姉貴が俺の頭を乱暴になでた時の感触。

 未練があるか、と聞かれたら・・・

 ないとは言えない。

 だが、もう扉は閉じている。特定の期間だけ繋がる転移装置は、今頃とうに閉じているだろう。戻る手段は今の俺にはない。

 それならば。

 『……行くところもないしな』

 我ながら素直じゃない返事だと思ったが、吉法師はそれで十分だったらしく、にっと笑って歩き出した。

 「ついてこい。屋敷まで案内する」


 森を抜けて、道に出た。

 踏み固められた土の道だ。遠くに人の姿が見える。農作業を終えて戻る者たちらしい。

 最初にこちらを見た男が、固まった。

 次の瞬間には叫んでいた。

 言葉の意味はわからない。だが意味などわからなくても、その声が「化け物だ」「逃げろ」「武器を取れ」のたぐいであることくらい、雰囲気でわかる。どこの世界でも、巨大な獣を見た人間の反応というのはそう変わらないものだ。

 どよめきが広がる。女が子供の手を引いて逃げる。男たちが農具を構える。俺は内心でため息をついた。やっぱりこうなるか。

 吉法師が前に出た。

 短く、しかし腹に響く声で何かを言った。たった一言か二言だったが、声に妙な重さがあった。十四かそこらの少年の声とは思えない響きだった。

 念話越しに意味が届く。「騒ぐな、俺の連れだ」おおよそそういう内容だ。

 男たちが顔を見合わせる。吉法師のことを知っているらしく、農具を下ろしかけては俺を見てまた迷う、というのを繰り返している。

 俺は努めて大人しくしていた。急に動いたり声を出したりしない方がいい。

 やがて、男たちはそろそろと道の端に寄った。通れ、ということらしい。

 吉法師は涼しい顔で歩き続ける。俺はその隣を行く。

 通り過ぎる時、男たちの視線が突き刺さった。恐怖と困惑と、少しばかりの呆れが混じった目だ。その中のひとりが何かを呟いた。言葉の意味はわからないが、呆れと苦笑が混じった響きだった。おそらく吉法師はこういうことをよくやる、とそういう意味だろうと俺は察した。

 (つまり俺は、吉法師の珍事の一つに数えられたわけだ)

 なんとも言えない気持ちになった。


 屋敷への道を歩きながら、吉法師はいろいろと話しかけてきた。

 念話を通じているから、声の意味もわかる。俺の元の世界のこと、魔法のこと、どうやって転移してきたのか、念話以外に何ができるのか。質問が途切れない。

 俺はそのひとつひとつに答えた。隠す理由もなかったし、何より久しぶりに、まともな会話をしている、という感覚が心地よかった。

 森の中の「腹が減った」しか返事がない熊から抜け出して、ようやく言葉が通じる相手と話している。それだけで少し、気持ちが楽になっていた。

 『お前は怖くないのか。俺のことが』

 ふと聞いてみた。

 吉法師は少し考えてから答えた。念話に声を重ねて、はっきりと。

 「怖いかどうかより、面白いかどうかだ」

 『それは答えになっていないぞ』

 「なってる。怖いものでも面白いなら近づく。それだけだ」

 俺はその言葉を聞いて、少し黙った。

 変わった人間だ、と思った。良い意味で。

 「それに」と吉法師が続けた。「お前が俺を食う気なら、とっくに食ってる。話しかけてきた時点で、そういう熊じゃないとわかった」

 『……案外、冷静に見ているんだな』

 「当然だろ」

 吉法師は当たり前のように言った。

 「相手を見ずに怖がるのは、ただの臆病だ。怖がるなら、ちゃんと見てから怖がれ。そう教わった」

 誰に、とは聞かなかった。でも、その言葉を教えた人間は、なかなか良い人間だったんだろうと俺は思った。


 屋敷が見えてきた頃、吉法師が突然立ち止まった。

 何かを言いながら振り返る。念話越しに意味が届く。「そうだ、名前」——もう一度言え、ということらしい。

 『……熊五郎だ』

 吉法師はそれを聞いて、ひとつ頷いた。何かを確かめるように。

 「よし、クマゴロウ」

 それからこちらを振り返って、まっすぐ俺の目を見た。

 「お前は今日から俺の熊だ」

 俺は一瞬、言葉に詰まった。

 『……俺は誰かのものになった覚えはないんだが』

 「細かいことはいい」

 『細かくない。根本的な問題だ』

 「じゃあ、相棒にしてやる」

 吉法師はそう言い直して、にやりと笑った。

 さっきより少しだけ、正直な笑い方だったと思う。

 俺はため息をついた。どうにも、この小僧には調子を崩される。

 (……まあ、いいか)

 元の世界で俺を「相棒」と呼んだ者はいなかった。兄貴でも姉貴でも親父でもなく、誰と比べることもなく、ただ「俺の相棒」と言ってくれる者は。

 『わかった。相棒でいてやる』

 「最初からそう言え」

 吉法師はそう言って歩き出した。

 俺はその隣を、一歩遅れて歩いた。

 空が茜色に染まっていた。見知らぬ世界の、初めての夕暮れ。

 悪くない、と俺は思った。


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