第9話 警視庁の影
新宿の外れ、打ち捨てられたビルの一室。
無数のモニターが青白い光を放ち、遠野圭はその光に照らされながら、流れるような手つきでキーボードを叩いていた。
「……見てな、葵ちゃん。これがこの街の『裏側』の相場だ」
遠野が指し示した画面には、奇妙なデータが並んでいた。それは株価のチャートのように見えるが、項目名は「霊的残滓」「観測データ」「境界の権利者」など、およそ正気の沙汰とは思えないものばかりだった。
「あの日、警視庁で砂になった佐藤刑事……。彼の死は、ある海外のヘッジファンドによって『暗殺プロトコル』として一千万ドルで落札された。連中はね、効率的に人を消すための『計算式』を欲しがってるんだよ」
遠野の言葉に、葵は吐き気を覚えた。
人が砂になって消えるという悲劇が、どこかの金持ちの娯楽……あるいは投資対象として、数値化されている。
「……貴様は、それを仲介して飯を食っているのか」
氷室が低く、押し殺したような声で訊ねた。
「俺はただの記録係さ。……あるいは、この狂ったシステムがいつ破綻するかを見届けるだけの傍観者かな」
遠野は一瞬だけ、画面を閉じた。鏡のように暗くなったモニターに、彼の歪んだ、しかしどこか虚ろな瞳が映り込む。
「氷室さん、あんたも知ってるだろ。世界はとっくに壊れてる。誰かが境界をこじ開けたせいで、俺たちの日常は薄皮一枚のハリボテになった。……俺は、その皮を剥ぎ取った奴の顔が拝みたいだけさ」
三人は、霧に包まれた練馬区の廃校へと向かった。
そこは十年前の「集団失踪事件」以来、行政からも見捨てられた呪われた場所だ。
校門を潜ると、葵の「瞳」が激しく疼いた。
かつて子供たちの笑い声が響いていたはずの校舎は、今や「境界のノイズ」を増幅させるための巨大な拡声器と化していた。
廊下を進むたび、葵にはかつての生徒たちの残像が見える。……いや、それは残像ではない。境界の向こう側から漏れ出した「過去の記録」が、現在の風景に上書きされているのだ。
「……誰か、いる」
氷室が鋭く呟き、銃先を闇に向けた。
校舎の影から現れたのは、篠原監察官直属の特殊捜査班、通称『整理人』たちだった。彼らは音もなく現れ、迷いのない所作で武器を構える。
警察組織は、怪異を鎮圧するためではなく、その不都合な『痕跡』を消し去るために動いている。
「手間をかけさせるな、氷室」
無線機から、篠原の冷徹な声が聞こえた。
「そこから先は、国家の領域だ。一介の逸脱者が触れていい場所ではない」
「……へっ、国家なんて言葉、久しぶりに聞いたぜ」
遠野が懐から小型のスクランブラーを取り出し、作動させた。
強烈な磁気嵐が周囲を襲い、不気味な青いスパークが廊下を走る。
その隙を突いて、氷室は整理人の首筋を叩き伏せ、葵の腕を引いて地下階段へと飛び込んだ。
地下二階。
重厚な防火扉の向こう側に広がっていたのは、廃校とは思えない最新鋭の実験施設だった。
中心部には、巨大なシリンダーが設置され、その中には無数の「人間の瞳」が標本のように浮かんでいる。
そして、その中央に立つ男。
白衣を纏い、片方の瞳に機械的な義眼を嵌めた男、九条。
彼は葵の姿を認めると、慈愛に満ちた、しかし狂気に震える笑みを浮かべた。
「……やっと来たね、私の『最高傑作』。君こそが、この檻のような世界を打ち破るための、最後の一鍵だ」
九条の指先が、何かの起動スイッチに掛かった。
地下室全体の震動が始まると同時に、葵の「印」が、今日一日で最大級の紫光を放ち、彼女の絶叫が闇に解け落ちた。




