第8話 精神の摩耗
朝、目が覚めた時。葵は自分がどこにいるのか、一瞬だけ分からなくなった。
視界の端が、古びた白黒映画のように砂嵐でノイズがかかっている。
キッチンへ向かい、蛇口を捻る。流れ出した水は、彼女の目には泥のような黒い粘液に見えた。慌てて目を擦っても、その感覚は消えない。
「……味が、しない」
トーストした食パンを口に運ぶが、それは乾いた紙を噛んでいるのと何ら変わりなかった。
色彩が欠落し、世界の解像度が一段、また一段と落ちていく。
怪異を鎮圧し、「印」が深まるたびに、彼女の魂は「境界」の向こう側に引きずり込まれているのだ。
外に出れば、事態はさらに悪化した。
新宿の街を行き交う人々。
彼らは笑い、話し、スマートフォンの画面を覗き込みながら、自分たちの「日常」を謳歌している。だが、葵の瞳が捉えるのは、その背後にうごめく無数の「影」だった。
すれ違ったサラリーマンの顔が、一瞬だけ砂のように崩れて見える。
ベビーカーを引く母親の足元には、黒い手がまとわりついている。
交差点で信号待ちをする人々全員の背中に、自分と同じ「印」が浮かび、紫色の光を放っている幻覚。
「嫌……視たくない……!」
葵は耳を塞ぎ、その場に蹲った。
人々は彼女を「おかしな女」として避けて通っていくが、その足音さえも、葵には怪異が近づいてくる音にしか聞こえない。
視界が、汚染されていく。
世界が、自分を拒絶しているのではない。自分が、この世界から「異物」として剥離し始めているのだ。
「落ち着け、葵。それは現実じゃない」
不意に、強い力が彼女の肩を掴んだ。
氷室だ。彼の声だけが、この狂った世界の中で唯一、色彩を保っていた。
「氷室さん……暗いんです。全部、砂になって、消えちゃうんです……」
氷室は無言で葵を抱きかかえ、遠野が用意したセーフハウスへ連れ戻した。
そこは古いビルの地下室で、窓すらない。だが、今の葵にとっては、その暗闇こそが救いだった。
「……あーあ。シンクロ率が限界を超えてやがる」
遠野がタブレットの数値を眺めながら、デリカシーの欠片もない声を出した。
「彼女の脳波と『ノイズ』が同期し始めてる。これじゃあ、普段から幽霊屋屋にいるようなもんだ。……おめでとう、葵ちゃん。君はもう、立派な『門』だ」
「遠野! 言葉を選べ」
氷室が低く唸るが、遠野は肩をすくめる。
「事実だぜ。黒幕はね、彼女の精神をわざと摩耗させてるんだ。心が折れて、自分と世界の境界線が消えた時……そこが、彼岸と此岸が完全に入れ替わるポイントになる」
葵は毛布に包まり、ガタガタと震える自分の手を見つめた。
もはや自分の意思で視るのではない。世界が無理やり、彼女に「真実」を押し付けてくるのだ。
「……五年前、俺も同じ景色を視た」
氷室が、葵の隣に腰掛けて静かに呟いた。
「空が赤く染まり、街のビルが巨大な墓標に見えた。……俺は、それが妹の末路だと知っていたから、その景色を受け入れるしかなかった」
氷室の視線が、葵の手のひらの印に落ちる。
「だが、お前は違う。お前はまだ、自分の足でこっち側に立っている。……俺が視ている景色を、これ以上汚させるな」
氷室の言葉は、慰めですらなかった。それは「生きろ」という呪いのような激励だった。
葵は、氷室の服の袖をぎゅっと握りしめた。
その感触だけが、今の彼女にとっての唯一の錨だった。
夜。葵の夢に、錆びついた校舎のチャイムが響いた。
廃校の地下。そこから溢れ出す、底知れない負の熱量。
次はそこだ。
宿命という名の、逃げ場のない招待状が、葵の脳裏に白く焼き付いた。




