第7話 深まる闇
警視庁捜査一課のオフィスは、いつものようにキーボードを叩く音と、淹れたての安っぽいコーヒーの匂いに包まれていた。
窓の外からは晴天の昼下がりの陽光が差し込み、蛍光灯の一つが小さくチカチカと不規則な音を立てている。そんな「ありふれた正義」の真ん中で、惨劇は唐突に始まった。
「……おい、佐藤。その資料の件だが」
氷室が数歩先を歩く同僚の佐藤に声をかけた、その瞬間だった。
「あ……お、氷室……」
佐藤が振り返ろうとして、その場に崩れ落ちた。……いや、崩れ落ちたのではない。彼の身体が、足元から急速に「砂」へと変貌し、乾いた音を立ててタイルに散らばったのだ。
葵の耳に、この世のものとは思えない甲高い悲鳴が響いた。それは佐藤の魂が「境界」の向こう側へと無理やり引きずり出された、断末魔の残響だった。
「佐藤!」
氷室が駆け寄り、その肩を掴もうとしたが、彼の手が触れた場所から指先、腕、そして頭部までもが、灰色の細かい粒子となって消えていった。数秒前まで冗談を交わしていた男が、今はただの灰の山となって床に広がっている。
周囲の刑事たちが騒然とする中、葵はオフィスの入り口に立つ影に、本能的な恐怖を感じて足を止めた。
「全員、持ち場を離れろ。このフロアを封鎖する」
低く、地鳴りのような声。
監察官・篠原厳。仕立てのいい真っ黒なスーツに身を包んだその男は、床に散らばった佐藤の「残骸」を一瞥することもなく、氷室を射抜くような視線で睨みつけた。
「篠原……! 佐藤が、目の前で……!」
「過労による急性疾患だ。佐藤刑事は職務に尽力し、倒れた。それ以上の事実は存在しない」
篠原の言葉に、氷室の表情が激しい怒りに歪んだ。
「ふざけるな! 砂になったんだぞ! これが病気だと……!」
「そう確定させたのは組織だ。氷室、お前が追っている死遊びは、ここで終わりだ」
篠原は懐から一通の書類を取り出した。それは氷室の捜査権限を剥奪し、無期限の待機を命じる通告書だった。
葵は、篠原の背後に「巨大な闇」が蠢いているのを視た。それは怪異の影ではない。冷徹な、組織という名の巨大な意志が、個人の尊厳を押し潰そうとしている。
「奴が最後に口にした『アーカイブ、202番』……。篠原、お前たちは何を知っている」
「……踏み込みすぎるなと言ったはずだ」
篠原の瞳に、一瞬だけ憐れみのような色が浮かんだが、それはすぐに鉄の冷たさに塗り替えられた。
一時間後、地下の駐車場。
氷室は無言で、自分の警察バッジをボンネットの上に置いた。
「氷室さん……」
「佐藤は、俺の代わりに真相に触れちまった。奴らのいう『秩序』ってのは、犠牲を砂に化けさせて隠すことらしい」
氷室の横顔には、これまでにない疲弊と、それ以上に激しい決意が宿っていた。
彼は葵の震える手を、荒っぽく、だが確かな力で握りしめた。
「葵、お前をここに置いていくことはできない。篠原の目は既に、お前を『不都合な証人』として捉えている」
警察署の外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。
建物の裏口から外に出ると、一台の黒いセダンが待ち構えていた。
運転席でタブレットを弄っていた遠野が、窓を開けて皮肉げな笑みを浮かべる。
「おやおや、組織の忠犬が野良犬になっちまったか。……ようこそ、泥沼へ」
雨に煙る警視庁の建物を背に、車は走り出した。
葵はバックミラーを覗き込み、オフィスの窓際に立つ篠原のシルエットを視た。
彼らはもう、法に守られた存在ではない。戻ることのできない「境界」の内側へと、自分たちの足で踏み込んでしまったのだ。
砂になって消えた佐藤の、無念の囁きが、雨音に混じっていつまでも葵の耳を打ち続けていた。




