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幽霊が見える探偵と彼の秘密  作者: 黒豆子犬


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第6話 秘密の共有

 午前二時。新宿の喧騒を遠くに聞きながら、葵のワンルームマンションは、雨の匂いと消毒液の香りが混じった奇妙な静寂に包まれていた。

 脱ぎ散らかされた大学の講義ノート、ローテーブルに乗ったままの食べかけのコンビニ弁当。そんな生活感の極地のような部屋に、血の匂いを纏った氷室蓮が座っている光景は、どこか現実味を欠いていた。

「……動かないでください。まだ血が止まってません」

 葵は震える手で、救急箱から古い包帯を取り出した。

 氷室の右肩には、廃駅で負った見事な斬撃の痕。氷室は痛みを訴えることもなく、ただ無機質な壁の一点を見つめていた。

「葵、お前はもう関わるべきではない」

「……今さら、何を言ってるんですか」

 葵はあえて強い口調で返した。氷室の包帯を巻く指先に、彼の熱い体温が伝わってくる。その熱が、彼女をかろうじて「現実」に繋ぎ止めていた。


 処置を終えた氷室は、葵に促されてキッチンに立った。

 彼は棚から無造作に安物のインスタントコーヒーを選び、慣れない手つきで湯を沸かした。

「……苦いな」

 差し出されたマグカップを口にした氷室が、眉間にしわを寄せる。

「いい豆じゃないですから。……でも、氷室さんがコーヒーを淹れるなんて、意外です」

「五年前までは、これが日課だった」

 氷室の声が、不意に冷たく、遠くなった。

 窓の外、遠くで響く雷鳴が、彼の記憶の蓋をこじ開けるかのように鳴り響いた。

「妹がいた。……俺の相棒でもあった男の婚約者だ。彼女も、お前と同じように『視える』資質を持っていた」

 氷室の大きな手が、マグカップを騎士の剣のように強く握りしめる。

「奴らは彼女を連れ去り、境界を固定するための『杭』として利用した。……俺たちが辿り着いた時、彼女はもう人間らしい形を保っていなかった。意思を失い、ただ周囲の全てを破壊するだけの怪異に成り果てていたんだ」

 葵は息を呑んだ。氷室の瞳の奥に宿る、絶対的な零度の怒り。それが、彼を突き動かしているものの正体だった。

「俺は、自分の手で彼女を……」

 言葉が途切れる。氷室はそれ以上を語らなかったが、葵にはその続きが痛いほど分かった。

 彼が法を超えて怪異を追うのは、正義のためではない。救えなかった過去を、自分の手で葬り直すためだけの、終わりのない葬列なのだ。


「氷室さん、見てください」

 葵は、疼き始めた手のひらを氷室に差し出した。

 紫色の脈動を繰り返す、呪いの印。

「怪異を倒すごとに、これが濃くなっています。……私は、いつかあなたの妹さんのようになるんでしょうか」

 葵の声は微かに震えていた。

 氷室は無言で葵の手を掴み、その印を親指で強く押さえつけた。その仕草は乱暴だったが、逃げ出すことを許さないという、ある種の誓いのようにも感じられた。

「お前をあんな風にはさせない。……それは、俺が救済者だからじゃない。お前の瞳がなければ、俺は奴の下へ辿り着けないからだ。……いいな、葵。死にたくなければ、俺から離れるな」

 共犯者の、契約。

 それは救いとは程遠い、絶望の上に成り立つ脆い橋のようなものだった。だが、今の葵にとっては、一人で闇に飲み込まれるよりも、その地獄への同行者が必要だった。


 一時間後。氷室は「明朝、また連絡する」とだけ言い残し、夜の闇へと消えていった。

 葵は重い玄関の扉を閉め、チェーンを掛けた。

 一気に部屋の温度が下がったような錯覚に陥る。

 彼女は深呼吸をして、ベッドへ向かおうとした。

 ……その時だ。

 誰かが、自分の部屋の前を通る気配がした。

 規則正しい、重い足音。それは階段を上ってきたのではなく、最初からそこにいたかのように、扉のすぐ向こう側で止まった。

 葵の背筋に、氷のような戦慄が走る。

 怪異ではない。生身の人間が、悪意を持って自分を「観察」している、そんな生々しい気配。

 ドアスコープを除こうとした指先が、恐怖で震えた。

 物語の平穏は、最初から存在しなかったのだ。

 扉の向こう側で、見えない誰かが静かに笑った気がした。

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