第5話 怪異の現形
都営大江戸線、旧新宿西口駅跡。
封鎖された鉄扉の向こう側は、都会の喧騒が嘘のように静まり返っていた。漏れ出した地下水が線路を濡らし、カビと鉄錆が混じった重苦しい空気が鼻腔を突く。
「……氷室さん、すぐ近くにいます」
葵の声が、コンクリートの壁に反響して不気味に震えた。
背後から響く、コツ、コツ、という乾いた音。それは軍靴の足音のようでもあり、あるいは誰かが爪を立てて硬い床を叩いているようでもあった。
「分かっている。奴の足音は、俺の鼓膜にも障り始めている」
氷室は銀の装飾が施された特注の拳銃を構え、闇の深淵を見据えた。
不意に、背後の闇が質量を持って膨れ上がった。
「っ、上です!」
葵の叫びと同時に、氷室は反射的に横へ跳んだ。
直後、彼がいた場所のコンクリートが、巨大な刃物で断たれたように深く削られた。
「見えない……くっ!」
氷室の肩口から鮮血が流れる。姿なき怪異の斬撃が、彼の防弾ベストを容易く切り裂いていた。五感に頼るプロの刑事にとって、この「不可視の蹂躙」ほど屈辱的な状況はない。
怪異は止まらない。次は葵を、そして氷室の心臓を狙って、冷酷な足音を響かせながら間を詰めてくる。
葵は恐怖で足が竦んでいた。逃げ出したい。警察に任せて、自分は知らないふりをして家へ帰りたかった。
だが、自分の前で血を流しながらも、一歩も引かずに銃を構え続ける氷室の背中が、彼女の倫理を繋ぎ止めていた。
(私が視なきゃ……確定させなきゃ、氷室さんが死ぬ!)
葵は両手で自分の顔を覆い、指の隙間から、これまで避けてきた「真実の領域」へ意識を潜らせた。
視界が焼けるように熱い。脳の裏側で、無数の非業の死を遂げた者たちの叫びが共鳴する。
その奔流の中から、葵は「足音」の核――かつてこの駅で過労により命を落とし、誰にも気づかれずに朽ち果てた駅員たちの怨嗟の塊を見つけ出した。
「視えました……! 奴の心臓は、右の三段目の柱、その三尺上です!」
葵が指を差した瞬間、彼女の瞳が黄金色の光を放った。
その光に導かれるようにして、氷室の視界にも、不気味な半透明の巨漢の影が「確定」した形で浮かび上がった。
「よく言った、葵!」
氷室は迷わない。葵の声が、今の彼にとっての唯一の絶対的な真実だった。
爆音とともに放たれた銀の弾丸が、怪異の胸元を真っ向から貫いた。
怪異は断末魔を上げることもなく、ただガラスが砕けるような音を立てて崩壊していく。
「……やっと、上がれる」
消えゆく影から、微かな、しかし安らかな囁きが聞こえた気がした。
静寂が戻った地下通路。
氷室は重い吐息を吐き、銃をしまった。
「……初陣にしては上出来だ。お前に救われたな」
言葉は短いが、そこには確かに、これまでにはなかった「信頼」の響きがあった。
葵は安堵し、力なく笑おうとした。……だが、自分の手のひらに走った鋭い疼痛に、表情が凍りついた。
「……あ、つく……」
第1章で刻まれた、死へのカウントダウンである「印」。
それが、不気味な紫色の光を放ち、脈打つように激しく明滅していた。
怪異を鎮圧すれば消えるはずだと思っていたその呪いは、あろうことか、新たな怪異を「食った」かのように、その輪郭を以前よりも濃く、深く、葵の肉体へと浸食させていた。
「葵、どうした」
「いえ……なんでも、ありません」
氷室に心配をかけたくないという。それは、彼女が初めてついた、残酷な嘘だった。
廃駅の外に広がる新宿の夜景は、相変わらず美しく輝いている。
しかし、その光の裏側に広がる闇が、以前よりも確実に葵を「身内」として招き入れているのを、彼女は手のひらの熱を通じて確信していた。




