第4話 見えざる手
新宿の雑居ビル、その地下深く。看板すら出ていないバー「シルバーコイン」は、タバコの煙と古い蔵書のような埃っぽい匂いに包まれていた。
カウンターの隅に、身の丈に合わない安物のスーツを崩して着こなした男が座っている。ボサボサの髪に、数日分は剃っていない無精髭。その風体はどこにでもいるうだつの上がらないサラリーマンのようだが、手元で動かしているタブレットを見つめる瞳だけは、獲物を狙う猛禽類のように冷たく、鋭い。
「……で、そっちの娘さんが、例の『特等席』の持ち主かい?」
男――遠野圭は、葵を一瞥してニヤリと笑った。その下卑たとも取れる笑みに、葵は反射的に氷室の背後に身を隠した。
「遠野、余計な詮索は抜きだ。頼んでいた解析はどうなった」
氷室が事務的に促すと、遠野は「これだからお役所仕事は」と肩をすくめ、タブレットをカウンターに滑らせた。
「結論から言うぜ。あの日、原宿の鏡の中に潜んでいた『アレ』は、天然物じゃない。誰かが丁寧に作り込み、一定の条件で起動するようにセットされた『人工怪異(ベータ版)』だ」
遠野の言葉に、葵の心臓が不快な拍動を刻んだ。人工。怪異が、誰かの手で作られたものだというのか。
「原宿一帯に隠されていた、この超高周波発信機……普通の人間には聞こえないが、お前のような『敏感な連中』には、脳をかき混ぜるようなノイズとして聞こえていたはずだ」
遠野が示した地図上のドットは、葵が感じていた「境界のノイズ」と完璧に一致していた。
「奴らは、人の無意識下の恐怖をこの周波数で増幅させ、境界を無理やりこじ開けた。昨今の都市伝説ブームも、そのための下地作り。……葵ちゃん、君が見ている世界はね、今や最高級の『投資対象』なんだよ」
遠野が葵にさらに身を乗り出す。その瞳には、彼女を一人の人間としてではなく、莫大な利益を生む最新型のセンサーとして見ているような、剥き出しの強欲が宿っていた。
「いいかい、君の瞳が『視て』確定させることで、不確定な影が質量を持つ。それを利用して、現実を書き換えようとしている連中がいるんだ」
葵は自分の手が、怒りと恐怖で震えるのを感じた。自分の苦しみを、この男は「金になるネタ」として値踏みしている。
「遠野、それ以上はいい」
氷室が遠野の胸元を軽く突き放し、話を遮った。
「黒幕の正体は掴めたのか」
「あいにく。だが、連中は自分たちのことを『境界を操る者』……リミット・ブレイカーと呼んでいるらしい。連中に言わせれば、この世界は閉じられた檻で、境界の向こう側こそが真の自由なんだそうだ」
馬鹿げている。葵は心の中で毒づいた。あの泥のような、救いのない闇に自由などあるはずがない。
その時、店内のテレビから緊急ニュースが流れた。
『……現在、都営大江戸線の地下通路にて、原因不明の霧が発生。数名の通勤客が意識を失い、十数名が行方不明となって……』
「始まったか。招待状だぜ、氷室さん」
遠野は不敵な笑みを浮かべ、一枚のICチップをカウンターに置いた。
「場所は、廃駅になった旧・新宿西口駅のさらに下。そこが奴らの実験場の一つだ。葵ちゃん、君の瞳で……その『檻の向こう側』を、俺たちにハッキリ見せてくれよ?」
遠野の軽薄な声が、葵の耳の奥にこびりついて離れなかった。
氷室は無言でチップを回収し、店を後にした。
新宿の夜風は冷たい。だが、地下から這い出しつつあるどす黒い熱気が、少しずつ、街の輪郭を歪め始めているのを、葵の瞳は既に捉えていた。
「……行きましょう、葵。連中を、野放しにはできない」
氷室の言葉に、葵は短く頷いた。
もはや、ただ怯えているだけの時間は終わった。彼女の視界に広がる異常な風景は、今や抗うべき運命そのものだった。




