第10話 連鎖する悪意
廃校の地下実験場。
無数の配線が血管のように床を這い、中央に鎮座するシリンダーが不気味な脈動を繰り返している。葵の視界は、もはや「現実」を捉えていなかった。
壁が波打ち、天井からは実体のない黒い雨が降り注ぐ。この場所全体が、九条博士によって作り上げられた「境界の胃袋」だった。
「素晴らしい……。観測者がその身を汚染に委ねることで、不確定だった量子の影が、これほどまでに強固な『真実』へと鋳造される……」
九条は恍惚とした表情を浮かべ、葵に歩み寄った。
彼の右目の義眼が、不気味な琥珀色に発光している。それは葵の瞳から盗み出したデータを基に、境界を強制的に固定するために作られた「神の眼」だった。
「佐藤を……あいつを、あんな風にしたのは、お前の勝手な理屈か」
氷室が、震える銃口を九条に向けた。
彼の全身は、空間の歪みによって引き裂かれ、服のあちこちから血が滲んでいる。だが、その瞳に宿る執念だけは、九条の狂気に勝る熱量を放っていた。
「進化に犠牲はつきものだ。氷室刑事、君だって分かっているはずだ。この停滞した世界を打ち破るには、誰かがその一歩を踏み出さなければならなかったのだということを!」
九条がコンソールのスイッチを叩くと、地下室の震動が頂点に達した。
シリンダーの中から、かつて救ったはずのあの少年……今は怪異と無残に融合し、肉体を歪ませた「被検体零号」が這い出してきた。
「葵、伏せろ!」
氷室が引き金を引く。だが、弾丸は九条に届く直前で、歪んだ空間によって軌道を逸らされ、空しくコンクリートの壁を砕いた。
葵の脳裏に、直接「声」が響く。
(……痛い……暗い……ママ……助けて……)
怪異に取り込まれた少年の悲鳴。それが葵の「印」と共鳴し、彼女の精神を内側から食い破ろうとする。
「やめて……もう、視たくない……!」
葵は両手で耳を塞ぎ、絶叫した。
その瞬間、彼女の手のひらの印から、これまでにない壮絶な紫の閃光が放たれた。
暴走。
九条の目論見通り、葵は「門」として開放され、この場所を境界の向こう側へと繋ぐための触媒へと変質し始めた。
「そうだ、葵君! そのまま全てを解き放て!」
九条が歓喜の声を上げる。
だが、氷室の叫びが、その狂宴を切り裂いた。
「葵! 戻ってこい! お前をこんな所で一人にはさせない!」
氷室が、自分の特注銃に最後の一発を装填する。
その弾丸の表面には、微かに灰色の粒が混じっていた。亡き妹の遺灰……彼が最後に残していた、この世で最も悲しく、最も強力な「絆」の結晶。
「お前が視ている地獄は、俺が全部、引き受けてやる!」
氷室が引き金を引くと同時に、葵もまた、自分の瞳を焼き切る覚悟で、九条を見据えた。
(……消えて。こんな残酷な世界、私が『無』だと確定させてやる!)
葵の全力の拒絶と、氷室の一撃が交差した。
九条の「神の眼」が、過負荷に耐えきれず粉々に砕け散る。
圧倒的な光の奔流が地下室を包み込み、物理的な空間そのものが悲鳴を上げて崩壊を始めた。
「……馬鹿な、私の……私の進化した世界が……!」
九条の姿が、光の渦の中に吸い込まれ、透けていく。
彼が消える直前、葵の瞳に映ったのは、彼自身の影が「境界」の化け物に食い尽くされ、形を失っていく無残な末路だった。
爆音。そして、完全な静寂。
気づけば、葵は朝日が差し込む校庭の地面に横たわっていた。
隣には、ボロボロになりながらも、煙を吐く銃を握りしめた氷室が座り込んでいる。
廃校の地下は完全に埋没し、九条の狂気の跡形もなくなっていた。
「……終わったん、ですか」
「ああ。……九条は消えた」
氷室の声は枯れていた。
空を見上げると、そこには以前と同じ、平凡で、退屈な青空が広がっている。
だが、葵の瞳は、その青空の裏側に、まだ隠しようのない「ひび割れ」が刻まれているのを視ていた。
手のひらの「印」は消えていない。
それどころか、九条の思惑とは別の形で、不可逆的な変質を遂げていた。
彼女はもう、二度と「普通」の人間には戻れない。
朝焼けに照らされた二人の影は、長く、深く、引き裂かれた世界のように歪んで伸びていた。
―― あとがき ――
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
葵と氷室が初めて「バディ」として息を合わせた第10話、
いかがだったでしょうか。
二人はまだ、互いを完全には信じていません。
でも——あの夜の出来事だけは、絶対に忘れない。
そういう関係の始まりを、書けていたら嬉しいです。
1章はここで一区切りです。
明日はお休みして、2章が翌日から始まります。
警察に追われながら、二人の距離はさらに縮まっていきます。
感想・応援、とても励みになります。
読んでいただけている実感が、次を書く力になります。




