第11話 代償の解決
九条博士が消滅し、廃校の地下が崩落してから三日が過ぎた。
新宿の街は、何事もなかったかのように平穏な朝を迎えている。ニュースでは「地下水脈による地盤沈下」が原因と報じられ、そこに九条の狂信も、氷室の怒りも、ましてや葵の絶叫も介在する余地はなかった。
葵は遠野が用意した板橋の安アパートで、重い瞼を持ち上げた。
(……まだ、消えてない)
窓から差し込む朝日の眩しさの中に、やはりそれはあった。
世界の輪郭を縁取る、漆黒のひび割れ。
九条を物理的に葬り去っても、葵の瞳が捉えてしまった「境界の向こう側」の景色は、もはや網膜に焼き付いて離れない。彼女が呼吸をするたびに、その微かな隙間から、実体のない冷気が肺腑へと流れ込んでくる感覚。
自分は生き残ったのではない。ただ、「こちら側」と「あちら側」を繋ぐ扉として、永遠に開かれ続けてしまったのだ。
「葵、起きたか。朝飯だ」
氷室の、いつもと変わらぬ事務的な声が隣室から届いた。
彼もまた、この狭い部屋での潜伏生活を強いられている。警察庁からの追っ手、そして九条の残党から身を隠すための、束の間の同居生活。
食卓に並べられたのは、コンビニのサラダと温められたスープ。
「……氷室さん、外はどうなってますか」
「篠原が廃校の周辺を完全に封鎖した。鑑識ではなく、内閣府直属の連中だ」
氷室は冷静にスープを口に運んだが、その視線はテレビ画面のテロップに向けられたままだった。
「九条が残した実験器材は、すべて焼却されたことになっている。だが、遠野の情報によれば、実際にはトラック数台分のデータが秘密裏に運び出されたそうだ。……行き先は、警視庁のメインサーバーだ」
葵の手が止まった。
自分たちが命懸けで拒絶したあの地獄が、今度は組織という名の巨大な皮を被って、正当な「力」として再定義されようとしている。
「……終わってないんですね。九条が言っていた『進化』は、まだ続いている」
その昼、遠野が息を弾ませてセーフハウスに現れた。
「お楽しみのところ悪いが、悠長にメシ食ってる場合じゃねえぞ」
彼はカバンから、一組のコンタクトレンズを取り出した。
「葵ちゃん、これを着けろ。……俺の知り合いのヤブ医者が、あんたの波長を誤魔化すために作った特製だ。これなしで街を歩くのは、暗闇でサーチライトを振り回すようなもんだぜ」
「どういう意味ですか」
「『観測者狩り』だよ」
遠野の目が、いつになく真剣だった。
「九条のデータが流出したせいで、あんたの能力の特性が、一部の過激な『顧客』にバレちまった。……界隈じゃ、あんたの瞳は今や『究極のレアメタル』扱いだ。九条みたいなマッドサイエンティストだけじゃない。もっと無機質で、もっと欲深い『何か』が、あんたの居場所を特定しようと、ネットワークの全方位に目を光らせてる」
夜。葵は遠野に言われた通り、特殊なレンズを装着して深夜のコンビニへ向かった。
レンズ越しに見える世界は、不自然な緑色に染まり、ひび割れも辛うじて隠されているように見えた。
だが、店を出て路地に入った瞬間。
葵の背筋に、氷室の殺気とも、九条の狂気とも違う、未知の「刺すような視線」が突き刺さった。
振り返っても誰もいない。街灯の下、自分の影だけが歪んで伸びている。
しかし、葵には聞こえた。
鏡の裏側で、誰かが指の関節をポキポキと鳴らしながら、自分の名前を囁く声を。
「……次は、あなたの番」
不気味な笑い声。それは人間のものでもあり、あるいは機械的な音声合成のようでもあった。
逃げ場はない。物語の第一部は九条という駒を失っても、その背後にある「盤面」そのものが、葵を食い尽くそうと動き始めていたのだ。




