第12話 常軌を逸した兆候
警視庁本庁舎、最上階に近い監察官執務室。
無機質なスチールデスクの上には、埃一つ落ちていない。窓から見える東京の摩天楼は、篠原厳の瞳と同じように冷たく、無感情に輝いていた。
「……佐藤刑事が砂になった件、および廃校での爆発事故。すべて帳尻を合わせた。これ以上の『ノイズ』は不要だ」
篠原は受話器を置き、眼前の書類に淡々と捺印を繰り返した。
その書類の端には、赤いスタンプで「焼却済」という文字が並んでいる。それは公的な記録から抹消された、怪異による犠牲者たちの成れの果てだった。
篠原にとって、正義とは「多数を生かすために少数を静かに切り捨てる」ことと同義だった。境界が開き、理が崩壊しようとするこの時代において、彼は警察組織の闇に設置された唯一の「ブレーキ」を自認している。
「篠原監察官。……あんた、また同じことを繰り返すつもりか」
不意に、部屋の扉が開いた。
立っていたのは、ボロボロのコートを纏い、潜伏先から密かに本庁へ侵入した氷室蓮だった。
篠原は驚く様子もなく、むしろ慣れ親しんだ客人を迎えるように、ゆっくりと椅子を回転させた。
「氷室、不法侵入は重罪だぞ。……お前の父親も、その血気盛んな正義感のせいで、自分から境界の闇に飛び込んでいった。私はただ、それを止める術を知らなかっただけだ」
「嘘をつくな。親父はあんたの手で、あの廃駅へと追い詰められた。……佐藤も、九条も、全部あんたのシナリオ通りなんだろう?」
氷室の銃口が、篠原の眉間を捉える。
「シナリオ? 買い被りすぎだ」
篠原は冷笑を浮かべ、デスクの引き出しから一枚の古い写真を取り出した。そこには、若かりし頃の篠原と、氷室の父親が肩を組んで笑う姿があった。
「世界は、九条のような狂信者だけでは回らない。彼が作り出した『観測の理論』は、国家が管理してこそ初めて意味を持つ。……氷室、お前が連れているあの娘は、今や最大の戦略物資だ。彼女の瞳を、野放しにさせるわけにはいかない」
その頃。セーフハウスに残された葵は、一通の正体不明のメールを眺めていた。
差出人は不明。添付されていたのは、氷室蓮が怪しげな研究室で九条博士と握手を交わしている、精巧に偽造された写真だった。
(氷室さんが……嘘……?)
葵の心に、冷たい氷が入り込むような感覚が走った。
第、第……死線を共に乗り越えてきたはずの絆が、たった一枚の電子データによって、音を立てて軋み始める。
レンズ越しに見える世界は相変わらずひび割れ、彼女に囁きかけてくる。
(信じちゃいけない……彼は、あなたを『餌』にしているだけ……)
葵は頭を抱えた。この疑念の出どころは、境界のノイズか。それとも、篠原が仕掛けた「精神的な包囲網」なのか。
ふと窓の外を見ると、街灯の下に、見慣れた大学の先輩の姿があった。
「桜井さん。……そこ、危ないよ」
ありふれた日常の声。だが、今の葵には、その声が何よりも恐ろしい「死の宣告」に聞こえた。
執務室の篠原は、無言で受話器を手にした。
「全部署に伝達。桜井葵を『超重要参考人』として指名手配する。……発見次第、生死は問わないが、眼球は無傷で回収しろ。これは警察の、公的な『清掃』だ」
氷室が引き金を引くよりも早く、篠原の合図で壁際の隠し扉から武装した「整理人」たちが雪崩れ込んだ。
物語は、個人の怨念を飲み込み、国家という名の冷徹なシステムへと変質していく。
氷室は窓を蹴破り、新宿の夜空へと身を投げた。
「葵――逃げろ!」
彼の絶叫は、雨混じりの風にかき消され、静かに狂い始めた学園都市の闇へと溶けていった。




