第13話 行動の限界
かつて葵にとって、大学のキャンパスは唯一の「退屈な聖域」だった。
無機質な講義棟、騒がしい学食、そして興味のない講義を子守唄にして微睡む時間。しかし、指名手配犯としてその地に足を踏み入れた今、見慣れた景色はすべてが未知の「狩場」へと変貌していた。
「……氷室さん、あそこに防犯カメラが。篠原の息がかかった『整理人』が潜んでいるかもしれません」
葵は深々とフードを被り、氷室の背中に隠れるようにして移動した。レンズ越しに見えるキャンパスは、至る所に細かな亀裂が走り、地面からは黒い粘液のような影が滲み出している。
「……葵、今は周りの人間を視るな。奴らの『悪意』に当たるぞ」
氷室の声は冷酷なまでに研ぎ澄まされていた。彼の手に握られた銃は、もはや公務員としての守りではなく、獣と戦うための牙そのものだった。
異常は、物理的な光景だけではなかった。
中庭に集まる学生たちの様子が、明らかにおかしかった。
彼らは一言も発さず、ただ手元のスマートフォンを見つめている。その画面には、共通のハッシュタグ……九条が遺した『境界への招待状』が並び、不気味なノイズがスピーカーから漏れ出していた。
「……き、み……みつ……つけた……」
一人の女子学生が、ゆっくりと首を葵の方へ向けた。
彼女の白目は不自然に濁り、その奥には葵の「印」と同じ紫色の明滅が宿っていた。
一人、また一人と、学生たちが機械的な動作で立ち上がる。彼らの意識は、既に個人のものではなかった。九条が遺したネットワーク・怪異が、集団心理という名の器を借りて、巨大な「群体」として葵を追い詰めようとしているのだ。
「逃げろ、葵! こいつらはもう、対等な人間じゃない!」
氷室が、葵を庇うようにして学生の一人を突き飛ばした。
だが、その氷室の挙動に、葵は戦慄を覚えた。彼の目は、もはや学生を救うべき対象として見ていなかった。障害物、あるいは排除すべき敵……その暴力的な決断力に、葵は篠原とは別の種類の「氷のような恐怖」を感じた。
二人は、旧図書館の地下資料室へと逃げ込んだ。
そこはかつて,九条が非常勤講師として席を置いていた場所だ。
「……見ろ、これだ」
本棚の裏から遠野が見つけ出したのは、ボロボロに焼けた一冊のノートだった。
「九条はここで、学生たちの『無意識』を吸い上げ、境界を開くためのブースターにしていた。……葵ちゃん、あんたの大学そのものが、巨大な生贄の祭壇だったってわけだ」
その時、校内放送のスピーカーから、割れた電子音が響いた。
「――まもなく、学園祭。……最後の、儀式を……始めましょう……」
窓の外。
学園祭を祝うはずの華やかな看板が、突如として砂になって崩れた。
校庭の真ん中、アスファルトを突き破って、巨大な鏡の柱がそそり立つ。
その鏡面には、葵の姿が映っていた。……いや、それは葵ではない。
彼女がかつて抱いていた「普通の女の子になりたい」という未練が、境界のエネルギーを吸って実体化した、歪んだ自分の鏡像だった。
「私……? いや、やめて……!」
鏡像の葵が、鏡の中からこちらへ手を伸ばす。
学園祭の喧騒は、いつの間にか地獄の底のような絶叫へと塗り替えられた。
日常が完全に死に絶え、物語は一段と深い「個人の深淵」へと足を踏み入れた。




