第14話 見え隠れする意図
巨大な鏡の柱の前で、葵は動けなくなっていた。
鏡面の中に映る自分は、現実の自分とは違っていた。ひび割れた世界を見るレンズも着けておらず、フードも被っていない。ただの、どこにでもいる幸せそうな女子大学校生そのものだった。
「……そんなに苦しいなら、こっちにおいで、葵」
鏡の中の「葵」が、慈しむような声で囁いた。
鏡の向こう側には、失ったはずの光景が広がっていた。優しい両親が待つ食卓、怪異の影におびえる必要のない静かな夜、そして、あの日死ななかった親友。
「そこなら、もう誰もあなたを指名手配なんてしない。氷室蓮に利用されることも、遠野に魂を数値化されることもないの」
甘い毒のような誘惑。
葵は、伸ばされた鏡の中の手に、無意識に触れそうになった。
ここを出れば、またあの汚染された新宿が待っている。人々が砂になり、篠原の猟犬たちが目を剥いて追ってくる絶望の現実が。
「葵,そいつの手を取るな!」
背後で、氷室の怒号が響いた。
彼は血だらけの右腕で銃を構え、押し寄せる学生たちの集団を必死に押しとどめていた。その姿は痛々しく、鏡の中の平穏とは正反対の「汚れた正義」そのものだった。
「氷室さん……でも、私……!」
「そいつは九条の残骸じゃない。お前自身の『弱さ』が実体化したものだ! 自分自身に食い殺されるつもりか!」
氷室が銃を鏡に撃ち込んだ。だが、弾丸は鏡面に飲み込まれ、波紋のような音を立てて消えた。
物理的な暴力はこの場所では無力だ。ここは葵の心が作り出した深淵なのだ。
「……見て、葵。彼には、あなたの苦しみなんて一生理解できない。彼はただ、自分の欠落を埋めるためにあなたを側に置いているだけ。……そんな男のために、地獄に残り続けるの?」
鏡像の言葉が、葵の胸を深く抉った。
篠原が撒いた不信の種が、鏡の中で黒い花を咲かせている。
だが、その時。遠野のハッキングが大学の放送システムを乗っ取った。
「あー、聞こえるか、お二人さん。葵ちゃん、あんたの瞳の波長、今だけ逆位相にしてやったぜ。……一瞬だけ、その鏡の中の『本音』を視てみな!」
レンズが強制的に解除され、葵の生身の瞳が解放された。
その瞬間、葵が視たのは、温かな家庭でも親友でもなかった。
鏡の向こう側にいたのは、九条の実験データが実体化した、無機質で冷酷なプログラムの塊……篠原が送り込んだ「兵器の雛形」だった。
「……違う。これは、私じゃない」
葵は、氷のように冷めた声で呟いた。
彼女は、鏡の中の手を握るのではなく、その鏡面に向かって、あの日九条を消し飛ばした時と同じ「拒絶」の眼差しを向けた。
(……消えて。私の弱さを、これ以上あいつらの道具にさせない!)
葵の瞳から、烈火のような光が放たれた。彼女が「存在しない」と確定させた瞬間、巨大な鏡の柱は音を立てて粉々に砕け散った。
学園祭の飾り付けが、降り注ぐ鏡の破片に照らされて美しく輝いた。
学生たちは催眠が解けたようにその場に崩れ落ち、世界のひび割れが一瞬だけ霧消した。
だが、その破片の一つを拾い上げ、執務室で眺めている男がいた。
篠原厳。
「……素晴らしい。精神的な葛藤を経て、彼女の『確定』の力はさらに純度を増した。……九条、君の遺産は無駄にはしなかったぞ」
モニターには、葵が鏡を砕いた瞬間のすべての波形データが記録されていた。
篠原の静かな拍手が、無人の部屋に響く。
葵は氷室の手を取り,ボロボロになりながらキャンパスを後にした。
勝利の筈だった。だが、拭いきれない敗北の予感が、二人の足元に長く、影を落としていた。




