第15話 制御不能の兆候
豪雨が板橋の安アパートを叩きつけていた。
学園祭での激戦から数時間。葵と氷室は、湿った空気と血の匂いが充満する室内で、言葉を失っていた。
「……氷室さん、どうしてあの時、何も言ってくれなかったんですか」
葵が震える声で携帯を取り出し、篠原から送られたあの写真を突きつけた。氷室が九条と密会している証拠写真。
氷室は窓の外を眺めたまま、ゆっくりと煙草に火を付けた。
「……九条を殺すチャンスを待っていた。それだけだ」
「それだけ……? でも、私、本当にあなたのこと、信じてたのに……!」
「信じるなと言ったはずだ、葵。……俺は、目的のために嘘をつく。お前を利用することだって、厭わない」
氷室の冷たい言葉。だが、葵は気づいていた。彼の持つタバコを挟む指が、わずかに震えていることに。
その時、アパートの廊下で不自然な静寂が訪れた。
「――来たな」
氷室が鋭く呟くと同時に、ドアが内側から爆散した。
突入してきたのは、黒いタクティカルスーツに身を包んだ精鋭部隊。篠原直属の『清掃局・零番隊』だ。彼らの手には、九条のデータを応用した青い電磁波(EM)パルスを放つ特殊警棒が握られていた。
「葵、逃げろ! 遠野の車が裏に回ってる!」
氷室がテーブルを蹴り飛ばし、盾にしながら銃を乱射した。
だが、零番隊の動きはこれまでの整理人とは次元が違った。彼らは葵の能力を無効化するジャマーを展開し、空間そのものの歪みを「固定」していた。
氷室が決死の覚悟で放った弾丸も、特殊な防弾シールドによって弾かれる。
氷室の肩に、敵の青い閃光が直撃した。
「……がっ、……!」
氷室が膝をつく。その時、彼の破れた袖口から葵が視たのは、人間の皮膚ではなく、黒い結晶が皮膚を突き破って増殖している無残な光景だった。
「氷室さん! 腕が……!」
「見るなと言っただろう! 行け、葵!」
氷室は最後の力を振り絞り、葵を窓の外の非常階段へと突き飛ばした。
彼が最後に向けた笑みは、いつもの皮肉めいたものではなく、どこか晴れやかな、救済を確信した殉職者のそれだった。
激しい雨の中、葵は待機していた遠野の車に飛び込んだ。
「氷室さんが! 氷室さんが捕まったんです!」
「……分かってる。だが、今は逃げるしかねえ」
遠野がアクセルを床まで踏み込んだ。バックミラー越しに、アパートが武装した男たちに囲まれていくのが見える。
葵は激しいパニックに襲われながら、割れたレンズの欠片を握りしめた。
ひび割れた世界が、今まで以上に残酷に、鮮やかに視える。
自分のせいで、佐藤刑事が死に、氷室さんが捕まった。
自分が「観測者」なんて能力を持っていなければ。
だが、その弱音を遮るように、街中のデジタルサイネージが一斉にノイズを上げた。
真っ暗な画面に、篠原厳の冷徹な横顔が映し出される。
「……桜井葵。逃走は無意味だ」
篠原の声は、葵の瞳に直接刻み込まれるかのような威圧感を持って響いた。
画面が切り替わり、拘束具を着けられ、拷問室のような場所に座らされた氷室の姿が映る。
「君の能力は、既に国家の管理下にある。……二十四時間以内に投降しろ。さもなくば、氷室蓮という個人を、この社会から物理的に『消去』する」
篠原の最終通牒。
絶望が、雨と共に葵の身体を芯から冷やしていく。
だが、その瞳の奥で、今までにはなかった漆黒の炎が灯った。
「……助ける。私が、私の眼で、氷室さんを現実の世界に連れ戻す」
臆病な女子大生は死んだ。




