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幽霊が見える探偵と彼の秘密  作者: 黒豆子犬


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第16話 予期せぬ危機

豪雨の霞が関。

 灰色の巨大な塊である警視庁本庁舎は、深夜の闇の中に冷酷な墓標のようにそそり立っていた。その窓の一つ一つが、葵には逃げ場のない「国家の瞳」に見えた。

「……いいか、葵ちゃん。俺のハッキングでカメラは三秒ごとにループさせる。その間に、この搬入経路を走り抜けろ」

 遠野がずぶ濡れの顔で、タブレットの画面を指し示した。彼の目は、いつもの軽薄さを完全に失い、かつて篠原の部下としてシステムを構築していた頃の、冷徹なエンジニアのそれに回帰していた。

「……はい。氷室さんのためなら、なんだってします」

 葵は遠野から渡された特殊な偽造レンズを瞳に嵌めた。それは単に自分の波長を隠すだけでなく、建物の壁を透過して「境界のエネルギー」の所在を可視化する、捨て身のガジェットだった。

 侵入を開始した瞬間、葵の視界は一変した。

 コンクリートの壁の裏側に、血管のようにうごめく紫色の光の束。建物全体が、九条の理論を吸い込み、巨大な生命体のように脈動していた。ここはもはや、正義を執行する場所ではない。怪異を管理し、運用するための「心臓部」なのだ。


 地下四階。

 通常の地図には記載されていないそのフロアは、異様な沈黙に包まれていた。

 廊下を歩くのは、感情を抹消された「整理人」の零番隊員たち。彼らの目は虚ろで、まるで機械仕掛けの人形のように決まった軌道を往来している。

「……氷室さん……どこ……?」

 葵は壁の紫色の光が最も密集している場所へ、吸い寄せられるように歩みを進めた。

 突き当たりに設置された、分厚い強化ガラスの隔離房。

 その向こう側で、葵は息を呑んだ。

 拘束椅子に縛り付けられた氷室蓮の姿があった。

 だが、それは三日前に別れた彼とは別人だった。彼の右腕は肩口まで黒い結晶に覆われ、皮膚からは不気味なノイズが火花のように散っている。

 虚空を見つめる彼の瞳は、かつての鋭さを失い、底なしの沼のように濁っていた。


「……嘘、でしょ……?」

 葵の声が、強化ガラスの表面で空しく霧消した。

 氷室は彼女の声に反応しない。代わりに、彼の唇から漏れたのは、言葉以前の、ただの掠れた咆哮だった。

 彼の背後には、九条の実験場で見かけたものよりも遥かに巨大な、境界の安定化装置が接続されている。篠原は、氷室という強靭な精神を「器」にすることで、境界の向こう側からのエネルギーを安定的に取り出そうとしているのだ。

「氷室さん! 私です! 葵です!」

 葵は夢中でガラスを叩いた。

 氷室の首筋が激しく痙攣し、彼がゆっくりと顔を上げた。

 一瞬だけ、その濁った瞳に葵の姿が映ったように見えた。だが、その直後、彼の黒い結晶の腕が異形に膨れ上がり、ガラスを内側から激しく叩きつけた。

「……ァ……ガ……アアア!」

 それは叫びだった。自分を殺せと言っているのか、それとも逃げろと言っているのか。

 その悲痛な音に呼応するように、本庁舎全体のサイレンが突如として咆哮を上げた。


「――おやおや。予告なしの訪問とは、感心しないな」

 天井のスピーカーから、篠原厳の冷徹な声が降ってきた。

 廊下の両端のシャッターが重厚な音を立てて閉鎖され、赤色の回転灯が不気味な光を撒き散らす。

「葵君。君がここに来ることも、我が『清掃局』の計算の内だ。……氷室の変質を完了させるには、最も親密な他者からの『精神的衝撃』が必要だった。……君の絶望こそが、最後の引き金になる」

 隔離房のライトが一斉に点灯し、葵の瞳はあまりの眩しさにレンズが焼き切れる音を聞いた。

 逃げ場のない迷宮の底。

 拘束された相棒の異形と、姿の見えない宿敵の宣告。


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