第17話 絶望の淵
強化ガラスの向こう、氷室蓮の姿をした「何か」が、獣のような低い唸り声を上げていた。
彼の右腕を覆う黒い結晶は、もはや皮膚の一部ではなく、石炭に酷似した質感を伴って肥大化し、隔離房の照明を飲み込むように鈍く光っている。
「氷室さん! 私を見て! 分かりませんか、葵です!」
葵の絶叫に、氷室がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや理性と呼べる光は灯っていない。漆黒の穴のような眼窩が、無機質に葵を捉えている。
不意に、氷室がガラスに向かってその異形の腕を叩きつけた。耳をつんざくような金属音が響き、強化ガラスに網目状のひびが入る。
「……カ……ハ……ァ……」
言葉ではない。それは肺から無理やり絞り出されたノイズだった。
「ダメだ、葵ちゃん! 今のそいつは篠原の実験プログラムを実行するための、ただの『回路』だ! 心なんてとっくに焼き切れてる!」
廊下で零番隊の銃弾を跳ね除けながら、遠野が悲鳴のように叫んだ。
だが、葵には視えていた。
氷室の右腕の結晶から、部屋全体に伸びる無数の見えない糸。彼は自身の肉体を境界の負荷に対する『避雷針』にすることで、この建物にいる無関係な署員たちへの精神汚染を、一人で食い止めているのだ。
「……拒絶しないで。氷室さん、あなたの地獄を、私に視せて!」
葵は特殊レンズを自ら毟り取った。
剥き出しの瞳が、隔離房の紫色の奔流に晒され、灼熱の熱を放つ。
意識が、現実から滑り落ちる。
彼女の精神が、氷室の深層心理へと無理やり接続した。
そこは、真っ黒な雨の降る、廃駅のホームだった。
五年前、氷室のすべてが止まった場所。
線路の先は底知れない闇が広がり、一人の少女……氷室の妹の残像が、ホームの端で虚空を見つめて立っている。
『……お兄ちゃん。……まだ、帰ってこないの?』
少女の背後から、黒い結晶の触手が伸び、彼女の細い首を絞めようとしていた。これが氷室の罪悪感の正体か。
葵は泥濘むホームを走り、少女の肩を抱き寄せた。
「違うわ! 蓮さんは、あなたを忘れたことなんて一度もない! でも、彼は自分の命を削って、あなたとの約束を守ろうとしてるの!」
『約束……?』
「復讐じゃない! あなたが最後に望んだ、彼自身の平穏を!」
少女の姿が、揺らめき、崩れ始めた。
彼女の瞳に一瞬だけ、本物の人間の情緒が宿ったように見えた。
『……そうだね。……お兄ちゃんに、伝えて。……もう、いいんだよって』
現実の世界。
地下四階の隔離房が、内側から凄まじい衝撃波を伴って爆散した。
降り注ぐ黒い雪のような境界の残滓。
その中心で、氷室蓮がゆっくりと立ち上がった。
右腕の結晶は消えていない。だが、その瞳には、葵の見慣れた射抜くような鋭い光が戻っていた。
「……葵。……遅かったじゃないか」
そのいつもの皮肉めいた、しかし深く安堵した声。
氷室は、自分の意思で黒い結晶の腕を握り込み、それを巨大な杭のように突き出して、押し寄せる零番隊のシールドを紙細工のように粉砕した。
「待たせたな。……反撃の時間だ」




