第39話 世界の歪みへ
あの日、霞が関のクレーターから最後に解き放たれた白銀の光が、異界化した日本を元の座標へと無理やり引き戻してから、半年が過ぎた。
東京の空からはあの禍々しい黒い日食は消え、ありふれた、けれどどこか頼りない青空が戻っている。世界は救われた、と人々は言う。あの日起きた「大規模な空間欠落」は、今では学術的な特異現象として、社会の中に整理されつつあった。
「……はい。観測データ、送信完了しました」
再建された警視庁の仮庁舎、その一画にある目立たない部署で、葵は淡々とキーボードを叩いた。
彼女の現在の公的な肩書きは『特例事案観測官』。
ボードメンバーという組織は消滅したが、境界が世界に残した「ひび割れ」は完全には塞がっていない。葵の瞳にだけ視える、空中に走るガラスの破片のようなノイズ。それらが「怪異」になる前に観測し、密かに処理する。それが、自分の意志で選んだ葵の新しい日常だった。
雨の降る日曜日の午後。葵は一人、都外れの静かな墓地にいた。
そこには、氷室蓮の名前が刻まれた公式な墓はない。葵は一人の男がこの世界に生きた数少ない証拠である、彼の黒いコートのボタンを、名もなき慰霊碑の側の濡れた土の中にそっと埋めた。
「……氷室さん。……コーヒー、まだ上手く淹れられないよ」
彼がいなくなったことで生じた欠落は、もう自分を苦しめるだけの傷ではなかった。それは、誇り高い共犯者と共に地獄を駆け抜けた証であり、今の自分が一人の人間として立っているための、確かな支えへと変わっていた。
帰り道。傘を差して渋谷のスクランブル交差点を渡る。
誰一人として気づいていない。交差点の真ん中の空間が、僅かにノイズを発して歪んでいることに。
葵は立ち止まり、その紫色の瞳を僅かに細めた。
ひび割れた世界。危うい均衡の上に成り立つ、美しくて、そして残酷な現実。
それを一人で見守り、一人で確定し続ける。その重圧が、心地よい誇りとして葵の胸に定着していた。
葵は、立ち退きの日が数日後に迫った、あの懐かしい雑居ビルの一室へと向かった。
埃を被ったドアを開ければ、そこにはかつて氷室が座っていた古びたデスクとソファが当時のまま残されていた。
葵は氷室の大きなコートを羽織り、深く椅子に沈み込んだ。
最後の一夜。明日、この部屋を出れば、彼女の「共犯者」としての時間は本当に過去のものになる。
葵は目を閉じ、これから始まる最後の一仕事を前に、自身の魂を観測し始めた。




