第40話 予兆の風
明け方の街は、ひどく透き通った静寂に包まれていた。
渋谷の雑居ビル、その三階にある一室。葵は最後の一口となったコーヒーを飲み干した。
明日、この建物は解体される。彼女の「共犯関係」の拠点は、物理的な瓦礫となって消えていく。けれど、葵の胸の中にあった底なしの孤独や虚無感は、もうどこにも存在しなかった。
葵は窓の外を見上げた。東の空が白み始め、ビル群のシルエットが黎明の光の中に浮き上がる。
不完全だ。けれど、だからこそ美しい。
あの日、氷室が自分の命を削ってまで守り抜いた、このありふれた不快な不合理さが。
「……行ってくるね、氷室さん」
葵は独りで呟き、氷室の机の上にマグカップを静かに置いた。
表に出て、冷たい早朝の空気を肺一杯に吸い込む。
これから始まる一日の、生命の咆哮。
通りを渡る途中、葵は足を止めて空を直視した。彼女の瞳孔が紫色の光を宿し、世界を深く、鋭く観測する。
そうだ。自分には見える。
この世界の美しさも、その裏側に潜む危うい裂け目も。
自分はもう、観測を強要される道具ではない。氷室が、遠野が、そしてお兄ちゃんさえもが、それぞれの形で自分に託した「意志」を。それらをこの現実に繋ぎ留め、誰にも視えない歪みを独りで支え続ける。
それが、一人の人間として生きることを選んだ、私の――観測者としての、呪いであり、使命だ。
葵の唇の端が、微かに吊り上がった。それは、かつて氷室蓮が現場で見せていた、あの不敵で、誇り高い笑みそのものだった。
彼女はコートの襟を立て、人混みが始まる前の駅へと向かって颯爽と歩き出す。
背中を叩く朝日は、かつてないほど明るく、彼女の歩む道を黄金色に染めていた。
世界は救われたのではない。私たちはただ、自分たちの手で世界を選び直したのだ。これからも、私は観測し続ける。この歪で、愛おしくて、不確かな現実を。
それが私たちの……。
永遠に続く、共犯関係の証だから。
(完)
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
「幽霊が見える探偵と彼の秘密」を書き始めたとき、
私はこの物語の終わりを既に知っていました。
それでも、葵と氷室が一歩ずつ歩いていく過程を書くことが、
何よりも好きでした。
霊が視えることで孤独になった女の子が、
感情を捨てることで生きてきた男の人と出会って——
二人は最後に何を選んだか。
その答えが、あなたの心に少しでも残ったなら、それ以上のことはありません。
感想、応援スタンプ、ブックマーク、どんな形でも
受け取れたら、書いた甲斐があります。
この作品を読んでくださったあなたへ、心から感謝を。




