第38話 守るべき存在
深い眠りから浮上するように、葵はゆっくりと目を開けた。
かつて警視庁本庁舎がそびえ立っていた霞が関のクレーターの底。葵は一人、瓦礫の山の上に倒れていた。
空を見上げれば、あの不気味な黒い日食は跡形もなく消え去っている。数ヶ月もの間、紫色の影に隠されていた剥き出しの朝日が、ビルの残骸の隙間から眩いばかりの光を放って、葵の頬を照らしていた。
「……氷室、さん?」
葵は激痛に応じる身体を無理やり引きずり、周囲を見渡した。
「氷室さん! どこ!? 返事をして!!」
けれど、返ってくるのは冷たい風の音だけだった。
葵は這うようにして、自分が弾き飛ばされた場所へと戻った。
そこには、一人の人間の肉体も、一欠片の衣服も存在しなかった。ただ、氷室の右腕があったであろう場所の地面に――砕け散った透明な、白銀の結晶の破片だけが、朝日に反射して虹色の輝きを放っていた。
葵はその破片を震える指で拾い上げ、胸に抱きしめた。
クレーターの底に、今まで一度も聞いたことのないような、葵の慟哭が響き渡った。
一ヶ月後。
東京は、ゆっくりと、けれど着実に復興への歩みを始めていた。
葵は警察の保護下に置かれた後、今はかつて二人で過ごしたあの雑居ビルの一室で、独り静かに過ごしていた。
窓を開ければ、都会の喧騒が聞こえる。けれど、葵の瞳に映る世界からは、確実に何かの「彩度」が失われていた。
ふと、部屋の隅に置かれた、画面が木っ端微塵に砕けた遠野のタブレットが、奇妙なノイズを発した。
葵がそれを手に取ると、死んだ液晶の奥から、壊れかけのボイスメモが一度だけ自動再生された。
『……葵。……。コーヒー、淹れ方を覚えておけよ』
氷室が、最終決戦の直前に、あるいはもっと前に、自分が消えることを予感して吹き込んでいた、短すぎる遺言だった。
彼は自分が守った少女が、誰かに寄りかかるのではなく、自分の足で立ち、何気ない日常を慈しんで生きていくことを、何よりも願っていたのだ。
葵は屋上へと出た。コートのポケットには、あの時拾った白銀の結晶の破片が入っている。
彼女は自分の瞳をそっと閉じた。すると、瞼の裏側に、まだ消え残っている境界の僅かな『残り香』が、幾何学的な光となって視えた。
葵は瞳を開いた。彼女の瞳はかつてないほど強く、紫色の光を宿して澄み渡っていた。
自分はもう守られるだけの道具ではない。この世界に残された「目に見えない真実」を観測し続け、氷室が守りたかったこの不確かな現実を支え続ける。
それが、一人の人間として生きることを選んだ、葵の新しい使命だった。
ひび割れた空を見上げ、葵は静かに一歩をみ出した。
観測者の物語は、終焉と共に、新しい夜明けの序章を刻む。




