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幽霊が見える探偵と彼の秘密  作者: 黒豆子犬


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第34話 カタルシスの瞬間

氷室の姿がノイズの向こうへ消え、断絶の壁が完成した瞬間。

 葵を取り囲んでいた迷宮は、音もなく真っ白な空間へと塗り替えられた。

 上下も左右もなく、無限に無機質な白だけが続く、完全な無菌室。それは、葵がかつて家族によって「観測の道具」として幽閉されていた、あの悲惨な幼少期の自室そのものだった。

「……氷室さん! 氷室さんッ……!」

 葵が白い壁を叩くが、その手のひらには冷たい感触すら返ってこない。

『叫んでも無駄ですよ、観測者・桜井葵。すでに彼は、このシステムから隔離された』

 空間のどこからともなく、冷徹な合成音声が葵の脳髄に直接響いた。

『私たちは、あなたの最適化を提案しているのです。絆という不確実なノイズを切り捨てれば、あなたはもう、誰かを失う恐怖や悲しみに怯える必要はありません。……ここは、絶対的な「無痛のユートピア」です』


 白い空間の床に、かつて任務で死んでいった佐藤刑事や、さっきの戦いで傷だらけになった氷室の姿が、ホログラムとして再生される。

 葵の心が、一秒にも満たない絶望に苛まれる。

 もし自分が彼らに出会わなければ、こんな悲しみを知ることもなかった。自分が「観測」をやめて、すべてを受け入れてしまえば、もう誰も傷つかないのではないか。

 システムがもたらす究極の怠惰な論理が、真綿で首を絞めるように葵の精神を侵食していく。


 ドンッ。

 その時。完璧な無音だったはずの白い壁の向こうから、重く、鈍い打撃音が響いた。

 ドンッ、ドンッ。

 それは、気のせいなどではない。システムの論理空間に、物理的な「暴力」が干渉している音だった。

「……氷室さん……?」

『……無駄なことを。彼の肉体はすでに限界です。あの防壁を物理的に破壊しようとすれば、彼自身の腕の結晶が先に砕け散る』

 ドゴォォォォンッ!!

 システムの声など関係ないとばかりに、白い壁にひび割れが走った。

 ひび割れの向こうから、白銀の結晶が突き出している。氷室だ。彼は自分の命の残量(結晶)をすべて打撃のエネルギーに変換して、絶対に壊せないはずの概念の壁を殴り続けていたのだ。


「……バカッ! 氷室さん、やめて! それ以上やったら、あなたが死んじゃう!」

 葵が泣き叫びながら、壁にすがりつく。

 だが、壁の向こうから、荒々しい、けれど誰よりも生気にあふれた声が返ってきた。

「……バカは、お前だ、葵!!」

 壁が大きく軋む。

「……お前が俺を、このクソッタレな世界に繋ぎ止めたんだろうが! 勝手に諦らめんじゃねえええ!!」

 氷室の咆哮。それはシステムが提示した「無痛のユートピア」など不要だという、生命のむき出しの証明だった。

 葵の瞳から、滂沱の涙が溢れた。

 そうだ。絆は苦しい。痛い。だが、だからこそ、誰かをこれほどまでに愛おしいと思えるのだ。

「……ええ。……ええ、私は諦めない!」

 葵は両手で自分の目を見開き、限界を超えて紫色の瞳孔を開放した。

 彼女の魂が、白い部屋という「偽りの認識」を完全に拒絶し、氷室がいる現実の座標を強引に『確定』する。

 ガシャンッ! というガラスの割れるような轟音と共に、絶対防壁が粉々に砕け散った。

 

 砕け散った光の破片の向こうに、右半身を血と白銀の結晶で染め上げた氷室が、荒い息を吐いて立っていた。

 葵はその胸に、力強く飛び込んだ。

 二人の目の前には、もはや防衛プログラムも幻影もない。

 すべてのノイズが消え去った。そこには、ただ巨大な一つの「眼管」――システムの中枢と同化した、神の深淵への最後の扉だけが口を開けて二人を待っていた。


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