第33話 バディの真価
真っ二つに割れた紫色の防壁を抜けた先。そこは、上下や重力といった物理法則が完全に狂った、情報空間だった。
宙を這うように無数の透明な管が走り、管の中を膨大な光のデータが流星のように駆け抜けていく。そこには空も地面もない。足場となる太い光の管の上で、氷室はひび割れた息を細く吐き出した。
「……まるで、神様の巨大な脳味噌の中を歩かされてる気分だぜ」
「これが、何億人もの無意識を束ねて世界を処理している、ボードメンバーの中枢神経系……」
葵の瞳には、管を流れる光の明滅が、人間の剥き出しの感情や記憶――喜び、悲しみ、憎悪の断片として視えていた。それらが無機質なアルゴリズムによって冷徹に処理され、境界のエネルギーとして循環しているのだ。
その時、周囲の空間が微かにノイズを発し、透明な管の中から、どす黒い霧が噴出した。
霧が人の形を成していく。一体ではない。無数の影が、葵と氷室を取り囲むように現れた。
そこに立っていたのは、かつて本庁舎で共に消滅したはずの監察官・篠原や、夜霧市で砂に帰したシオン、そして数多の泥の怪物たちの形をとった『防衛プログラム』だった。
「……悪趣味な真似を。俺たちの記憶を覗き込んで、わざわざ胸糞悪い連中を再生しやがったか」
氷室が白銀の右腕を構える。
実体のない影たちは機械的に動き、一切の感情の籠もらない冷徹な動作で、一斉に二人へと襲いかかってきた。
シオンの影が放つ真空の刃が、空間を断ち切りながら迫る。
氷室はそれを避けることなく、自らの肩から血を流しながら、刃の向こう側にいる影の頭部を白銀の結晶で容赦なく粉砕した。
「……氷室さん! 無茶です、これ以上傷を増やしたら……!」
「構うな! こいつらはただの人形だ。俺たちの足止めに命(結晶)を惜しむつもりはねえ!」
氷室が相打ち覚悟の死闘を繰り広げる中、葵の脳裏に直接、機械的な合成音声が響いた。
『観測者・桜井葵。なぜ、彼を止めないのですか』
それは神(兄)の声ではない。この空間全体の意思……同化しつつあるシステムの総意だった。
『彼はあなたを守るために、自らの命を不合理に削っています。あなたが観測を放棄すれば、彼はその苦痛から解放される。私たちは、彼の最適化された平穏を約束します』
「……黙れッ!」
葵は両手で耳を塞いだが、声は容赦なく脳を直接叩いた。
システムは物理的な排除より先に、葵の「確定」の力を生み出す精神的なコア――誰かを傷つけたくないという優しさ――を攻撃してきているのだ。
氷室の背中が、また一つ影の攻撃を受けて大きくよろける。葵の心が、一秒にも満たない「彼を休ませてあげたい」という恐ろしい誘惑に揺らいだ。
その、僅かな隙。
葵が立っていた透明な管が、突如として脈打つように変形し、氷室と葵の間に絶対的な断絶の壁を隆起させた。
「……あ……!」
「葵!! くそっ、この壁……!」
氷室が白銀の腕で壁を叩き割ろうとするが、その腕は傷つきすぎ、結晶が砕けるばかりで壁はビクともしない。
通信も途絶え、ノイズの向こうへ氷室の姿が完全に消えていく。
葵は光の管によって作られた、完全な「孤独の檻」に隔離されてしまった。




