第32話 絶望の中の一手
かつての日本の中心、東京。
二人が数日かけて辿り着いたその場所は、もはや人間の都市としての機能と原型を完全に喪失していた。
環状線は物理的な法則を無視して巨大なメビウスの輪のように空中で捻じ曲がり、高層ビル群は墓標のように傾斜して奇妙な幾何学模様を形成している。空を覆う黒い日食からは、紫色の流星群のような境界のエネルギーが絶え間なく降り注ぎ、地上を音もなく砂へと変換し続けていた。
「……これが、お前のお兄さんが望んだ『美しい世界』ってやつか。悪趣味にも程があるな」
氷室が荒い息を吐きながら、傾いたアスファルトを蹴った。
彼の右半身は、今やそのほとんどが白銀の結晶に覆われている。服の下で脈打つ結晶は、彼の心音と同調して鈍い光を放ち、少し前進するだけでも莫大な命をすり減らさせていた。
「……氷室さん、無理しないで。少し休みましょう」
「休んでどうなる。……ここが目的地だろうが。もたもたしてたら、俺がただの銀色の石像になっちまうぞ」
二人の目の前にあるのは、かつて霞が関と呼ばれ、警視庁本庁舎がそびえ立っていた跡地だった。
巨大なクレーターの底には、地下へと続く扉はない。ただ、空間そのものが激しく歪み、触れれば魂ごと消滅するであろう『紫色の防壁』が、半球状に地下施設を覆い隠していた。
「神と同化したボードメンバーの、絶対防壁。……葵、遠野のオモチャはまだ生きてるか?」
「はい」
葵は、画面がひび割れたタブレットを取り出した。
遠野が最後に遺したハッキングプログラム。それは境界の防御システムを破壊するのではなく、観測者という「システムの一部」を偽装して、一時的に扉を開くための『管理者権限』だった。
「……氷室さん。これを開けたら、もう後戻りはできません。……生きて帰れる保証は、どこにもない」
葵の指が、実行ボタンの上で微かに震える。
氷室は白銀の右手を伸ばし、その震える葵の手を力強く上から包み込んだ。
「……保証なんか、お前を最初に拾った日からねえよ」
氷室が、皮肉のない、憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべた。
「俺は、お前がいなきゃ、あのまま境界の狂気に飲み込まれて、その辺の泥の怪物になってた。……俺を『人間』の側に引き留めてくれたのは、お前のそのお節介な瞳だ。……だから、最後まで付き合わせてくれ。俺の命の使い道は、俺が決める」
葵の瞳から流れた一筋の涙が、氷室の白銀の腕に落ち、温かい光となって弾けた。
もう、言葉はいらなかった。
葵が、タブレットの実行ボタンを押し込む。
防壁が紫色の光を激しく明滅させ、やがて音もなく中央から真っ二つに割れた。
現れたのは、地下へと続く階段ではない。光ファイバーのような無数の透明な管が神経のように張り巡らされた、巨大な『生体コンピューター』のような深淵の縦穴だった。
そこから漏れ出すのは、人間のそれではない、完全で無機質な「概念」の冷たい吐息。
葵はタブレットを静かに地面に置いた。もはや機械の力は通じない。ここから先は、彼女自身の瞳による「観測」だけが唯一の武器となる。
「……行こう、氷室さん。……終わる世界に、ピリオドを打ちに」
二人は暗闇の底へ、一切の躊躇いなく身を躍らせた。
最後の戦場・ボードメンバーの中枢神経系へと向けた、片道切符の飛翔だった。




