第27話 焦燥の探索
巨大な瞳のクレーターから脱出した二人の前には、これまでの『夜霧市』とは似て非なる、腐敗した町並みが広がっていた。
アスファルトは粘液質に溶け、住宅街の壁という壁からは、無数の透明なコードがクレーターの中心へ向かって伸びている。神が宣言した最終フェーズ。それは「空間の消去」ではなく、この街の住民すべての命を「門」を開くための鍵として、境界と同化させる儀式だった。
「……走れ葵! ここはもう、人間のいる場所じゃねえ!」
氷室の右腕、白銀の結晶が夜の闇の中で鋭く輝く。
二人の背後から迫るのは、もはや明確な形を持たない泥の怪物たち。それは、神の儀式に飲み込まれ、個人の意識を失った元住民たちの成れの果てだった。
体力の限界が近い。地形のあちこちが紫色の光の沼に変わり、退路は確実に絶たれつつあった。
「……あ……ああ……」
泥の怪物が一体、葵の足元から這い上がり、その足首を掴んだ。
葵が恐怖に立ちすくんだその瞬間――街中に設置された古い防災スピーカーが、突如として耳障りなハウリング音を響かせた。
『あー、テステス。……クソッタレなお兄さん,聞いてるか?』
スピーカーから流れ出したのは、ノイズ混じりの、誰よりも聞き慣れた遠野圭の声だった。
同時に、街全体にけたたましいヘヴィメタルの音楽が爆音で鳴り響く。
その極めて「俗物的」な音が響き渡った瞬間、周囲の泥の怪物たちが統制を失い、苦しむように身を捩った。
「遠野さんの……ウイルス!」
葵の瞳から、大粒の涙が溢れた。遠野は死の直前、街の制御システムに最後のバックドアを仕掛けていた。自分の心拍停止をトリガーにして、神の「静寂な同調」を物理的なノイズで破壊する、彼らしい最高に意地の悪い置き土産だった。
「……上等だ。あのバカの葬式代くらいは稼いでやる」
氷室の唇の端が、獰猛に吊り上がった。
彼は白銀の腕を地面に突き立て、巨大な結晶の防壁を一瞬にして隆起させた。
泥の怪物たちがその壁に衝突すると、破壊されるのではなく、境界との「接続」を強制的に断ち切られ、ただの動かない泥へと還元されていく。
「……無粋な音楽ですね。せっかくの晩餐会が台無しだ」
瓦礫の影から、静かに銀髪の少年――シオンが姿を現した。
彼の手には、以前よりも大きく、禍々しい紫色のオーラを纏った裁断鋏が握られている。
「あなたがいなければ、僕は最初から、お兄様にとっての『唯一』でいられたのに。……あなたという本物がいる限り、僕はいつまでも出来損ないのスペアのままだ!」
シオンの優雅な仮面が剥がれ落ち、葵への剥き出しの劣等感と嫉妬が狂気となって爆発する。
シオンの鋏が、空間の境界線を十文字に切り裂いた。防壁が音圧と共に崩壊し、真空の刃が葵の首元へと迫る。
だが、葵は一歩も引かなかった。
「……あなたは、お兄ちゃんの代わりなんかじゃない」
葵の瞳が、シオンの放った真空の刃の『軌道』を直視した。
彼女の魂が、その刃が自分に届くという現実を真っ向から「無効」と確定する。
シオンの鋏の軌道が、見えない壁に弾かれたように不自然に逸れた。
その神懸かり的な隙を、氷室が見逃すはずがなかった。
白銀の結晶の腕が,シオンの鳩尾を深々と抉り飛ばす。
二人は言葉を一言も交わしていない。だが、互いの思考と呼吸が、これまでにない次元で完全にシンクロしていた。
逃げるだけの戦いは終わった。物語は、この狂った街を終わらせるための、本物の反撃の狼煙を上げた。




