第25話 警告の囁き
桜井神の指が葵の額に触れた瞬間、周囲のクレーターは消失し、そこには懐かしく、そして悍ましい「場所」が再構成された。
陽光が差し込む、広々としたリビング。
そこには、葵がずっと以前に失ったはずの、優しい父親と母親がいた。
「……葵,今日は学校で何があったんだい?」
父親が笑顔で問いかける。だが、その瞳の奥には、葵と同じ紫色の明滅が宿っていた。
葵には、もう視えていた。この家はただの団欒の場ではなく、ボードメンバーが新しい観測者を飼育するための「硝子の檻」であったことを。
桜井家は平凡な公務員の家庭などではなかった。代々、世界の境界を監視し、その波長を安定させるために選ばれた、呪われた巫女の家系……。
「葵、おいで。……お前の瞳を、私に見せておくれ」
母親が、氷のように冷たい手で葵の首を絞めるように抱き寄せた。
その時、家の壁が音を立ててひび割れ、そこから境界のドロドロとした黒い泥が溢れ出した。
父親の顔が砂のように崩れ、母親の身体が鏡の破片となって砕け散る。葵が視てしまった「真実」が、偽りの平穏を文字通り物理的に破壊していく。
「……酷いだろう、葵。君が真実を視れば視るほど,愛するものは壊れていく」
偽りの記憶の中で、白いコートの神だけが鮮明に存在し続けていた。
「父さんも母さんも、君という才能を管理しきれずに自滅した。……彼らにとって、君は愛娘である前に、自分たちの地位を守るための『高価な部品』でしかなかったからだ」
神の言葉は、葵の精神をズタズタに切り裂いた。
神が幼い頃、葵の瞳を奪ったあの日。神は葵を救おうとしたのではない。
葵が視るはずだった絶望のすべてを、神という「上位の観測者」が肩代わりすることで、葵をより純粋な、ボードメンバーに捧げるための「純白の生贄」へと磨き上げたのだ。
「私だけが、君を愛している。私だけが、君の痛みを唯一の正解として抱きしめられるんだ、葵」
その歪んだ抱擁を遮るように、現実の世界で、遠野圭の乾いた声が響いた。
「……カハッ……やって……くれるじゃねえか……お兄さんよ……」
神の消去。
遠野の右半身は、もはや実体を失い、透明なノイズとなって虚空に溶け始めていた。
それでも、彼の指は血まみれのタブレットを叩き続けていた。彼がこれまでの全捜査記録、そして九条のデータの深層から掘り起こした、最後の『対抗策』。
「葵ちゃん……聞け……。こいつの消去は……無敵じゃねえ……」
「遠野さん!! やめて、もう喋らないで!!」
「……いいか……こいつは、自分の視界にあるものを消してるだけだ……。……だがな、お前の『確定』の力で、こいつ自身を……この世界の、ただの『一要素』として固定しちまえば……」
遠野の指が止まった。
タブレットの画面に、一連の特殊な観測コードが走り,葵の網膜に直接焼き付けられる。
遠野圭という一人の、傲慢で欲深い、しかし誰よりも「現実」を愛したシステムエンジニアの、それが最期の仕事だった。
「……じゃあな、名探偵。……あとは……任せたぜ……」
遠野の身体が、音もなく空中に霧散した。
彼が握っていたはずのタブレットだけが、瓦礫の上に空しく落ちて、ひび割れた画面でノイズを吐き出していたランク。
「……あああああああ!!」
葵の絶叫が、硝子の家という名の悪夢を粉砕した。
自分を信じてくれた人が、また一人、消えた。
神の微笑みは変わらない。だが、葵の瞳に灯った光は、もはや神が望んだ「純白」ではなかった。
それは、失った者たちの血の赤を混ぜ合わせたような、烈火の紫。
覚醒。物語の第二部は、葵の絶望が「怒り」という名の確定した意思へと変質した瞬間、最大の転換点を迎えた。




