第24話 微かな痕跡
夜霧市の中心に空いた巨大な「瞳」のクレーター。
その最深部には、地上の喧騒が嘘のような、絶対的な静寂が支配していた。
紫色の霧が沈殿し、まるで重体のような圧力を持って葵の全身を縛り付けている。瓦礫の山を削って作られた歪な玉座に、白いコートを纏った青年……桜井神が、退屈そうに頬杖をついて座っていた。
「……久しぶりだね、葵。……随分と、汚れた連中と寄り添うようになったじゃないか」
神の言葉は、氷のように冷たく、それでいて深い慈しみを伴って葵の耳を打った。
葵は震える足で一歩前へ出た。神の瞳は、葵と同じ紫色の明滅を放っている。だが、その光の強さは葵の比ではない。彼が視線を動かすだけで、周囲の空間が微細に震え、実体のないノイズが火花のように散る。
「……お兄ちゃん。……どうして、あんな酷いことをするの。……街の人たちが、みんな……!」
「酷い? ……葵、君はまだ『観測』を理解していない。彼らは背景だ。……美しい君という肖像画を際立たせるための、色褪せた額縁に過ぎないんだよ」
神がゆっくりと右手を払い、葵の背後を指し示した。
そこには、強化ガラスよりも遥かに強固な「空間の檻」に閉じ込められた氷室蓮の姿があった。
氷室は叫んでいる。だが、神の能力……あらゆる振動と感覚を無に帰す『消去』の権能によって、彼の声も、彼が叩くガラスの音も、葵には一切届かなかった。
「氷室さん!!」
葵が檻に駆け寄ろうとした瞬間、神の指先から放たれた不可視の波動が、葵の前の空間を削り取った。
轟音すらない。ただ、そこにあった瓦礫が、最初から存在しなかったかのように、虚空の中へと消えていった。
「近づかないで。……今の君では、私の『領域』に触れるだけで、その不器用な魂が砂になってしまう」
神は玉座から降り、ゆっくりと葵へ歩み寄った。
彼の歩みの一つ一つが、葵の瞳に「世界の拒絶」として映る。彼は立っているだけで、周囲の現実を自分という絶対的な一点へ収束させていた。
「……葵。君の瞳は、九条のような痴れ者が作った道具で汚されている。……私がそれを綺麗にしてあげよう。……佐藤刑事というノイズ、氷室蓮という鎖。……それらをすべて私が消して、君を、本当の『自由』にしてあげる」
「……そんなの、自由じゃない! 私は、彼らと一緒にいたから、今の私になれたの!」
「それは君の錯覚だ」
神が葵の頬に冷たい手を添えた。
その指先が触れた瞬間、葵の脳裏に、かつて自分が兄によって瞳を奪われた日の、あの凄惨な光景が鮮烈に蘇った。
喜び。悲しみ。痛み。
それらの感情すらも、神にとっては「確定させるに値しないゴミ」でしかないのだ。
クレーターの端で血を流して倒れていた遠野圭が、震える手でタブレットに手を伸ばした。
「……まだ……だ……。……地元のバックアップサーバーから……こいつの……出所を……」
「無駄だよ、ノイズ」
神は葵から目を離さず、ただ左手で空を切った。
遠野の足元の地面が、霧のように霧散し始める。
「……やめて!! お兄ちゃん、お願い!!」
葵の声がクレーターに響き渡る。
神は微かに眉を動かし、葵を抱き寄せるようにして耳元で囁いた。
「……なら、葵。……君自身が、この男たちを消去するんだ。……そうすれば、遠野も氷室も、苦しまずに済む。……君の瞳が、彼らに引導を渡すんだよ」
自分自身の手で,唯一の絆を断ち切れという残虐な要求。
絶望の底。物語の第二部は、葵という少女の精神を、究極の二択という名のナイフで切り裂こうとしていた。




