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幽霊が見える探偵と彼の秘密  作者: 黒豆子犬


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第2話 秘密の契約

 氷室の運転する黒のセダンは、深夜の街を滑るように進んでいた。車内に流れる空気は、排気ガスの臭いよりもさらに無機質で、冷え切っている。

 助手席で身を縮める葵は、窓の外を流れるビル群を、ただ呆然と見守ることしかできなかった。数十分前までの彼女の日常は、もう世界のどこにも存在しない。そう、直感していた。

「……どこへ、行くんですか」

 震える声を絞り出した葵に、氷室は前を向いたまま、氷のような声で応じた。

「お前の居場所は、もう大学のキャンパスや安アパートにはない。それを自覚させるための場所だ」

 車が停まったのは、警視庁の庁舎から数ブロック離れた、看板のない古びた雑居ビルの前だった。氷室に袖を引かれるようにして連行された地下。幾重にも電子ロックがかけられた扉が開くと、そこには異様な空間が広がっていた。

 壁一面を埋め尽くす茶色く変色したダンボール、ラベルには「未解決」「特異事案」の文字。最新のホログラムモニターが青白く発光し、デスクの上には時代錯誤なインク瓶と万年筆が転がっている。


「座れ」

 氷室が指し示したのは、スチール製の硬い椅子だった。彼はモニターを起動させ、一枚の画像を表示した。それは、先ほど路路裏で葵を襲った、あの白い貌の化け物だった。

「境界の怪異。正式名称はないが、俺たちは便宜上『残留思念体』と呼んでいる」

 氷室は続け、別のスライドを開いた。そこには、人体の精神がノイズのように崩壊していく連続写真が並んでいた。

「お前が持っている力は、単なる霊感じゃない。観測によって確定していない現実を固定化する力だ。だが、それは諸刃の剣だ」

 モニター上のデータが、葵の数値を弾き出す。

「観測し続けることで、お前の精神――つまり霊的波形は『境界』に同化していく。このまま放置すれば、三ヶ月以内に、お前の人格はあちら側に引きずり込まれて霧散する。……要するに、死ぬということだ」

 葵の喉が鳴った。平手打ちを食らったような衝撃が、全身を駆け抜ける。

「死ぬ、って……そんな」

「救いがないわけではない」

 氷室は机の引き出しから、古い羊皮紙のような質感の紙束を取り出した。そこには、法的な効力など微塵もなさそうな、血の通わない文言が詰め込まれていた。

「俺の指揮下に入り、捜査に協力しろ。俺の持つ特殊な装備と術式で、お前の汚染を中和してやる。これは命の保障と、真実へのアクセスを担保する契約だ」

 葵は机の上の「契約書」を見つめた。氷室の目的は何なのか。彼が時折見せる、深い憎悪を秘めた瞳の理由は何なのか。

「五年前、俺の同僚たちは、ある事件でまるごと『消えた』。公式記録では行方不明だが、奴らは今も境界のどこかで、出口のない苦痛に晒されている。俺は奴らを見つけ出し、終わらせなければならない」

 氷室の冷徹な仮面の下から、マグマのような熱量が漏れ出した。

「そのためには、お前の『観測』が必要だ。奴らが、どこにいるのか。真実は何なのか。お前の眼でしか、見極めることはできない」


 不意に、葵の手のひらがズキリと疼いた。

 見れば、第1章で刻まれたあの黒褐色の印が、心臓の鼓動に合わせて鈍く明滅している。それはまるで、主人の命令に忠順に応える獣のように。

 葵は理解した。逃げる道は、もうどこにもない。一人でこの呪いに立ち向かう勇気も、術もない。

「……分かりました。私に、できることなら」

 絞り出した言葉は、重い枷となって自分の足首に絡みついた。

 氷室は満足げな笑みすら浮かべず、ただ淡々と「契約成立だ」と告げた。

「歓迎はしないぞ、桜井葵。ここから先は、地獄の最前線だ」

 氷室は一冊の分厚いファイルを取り出し、葵の前に放り投げた。

「最初の任務だ。原宿で多発している、女子大生の神隠し事件」

 ファイルからこぼれ落ちた被害者の写真。その背景に、葵は見覚えのある「砂嵐のようなノイズ」を見出した。

「……昨日、私が駅前で聞いた囁き。この写真の女の子、まだ生きてます」

 葵の言葉に、氷室の瞳が鋭く光った。

「そうか。ならば急ぐぞ。お前の『観測』が、最初の証拠だ」

 バディとしての最初の第一歩。それは、深夜の地下室から、さらなる闇の深淵へと足を踏み出すことを意味していた。

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