第1話 幽霊の囁き
夕闇の迫る駅前は、家路を急ぐ人々の熱気と、街頭ビジョンの喧騒が入り交じっていた。サークル帰りの学生たちが笑い声を弾ませ、スーツ姿の男たちが無機質な足音を刻む。そのありふれた日常の隙間に、それは不意に紛れ込んできた。
「――たす、けて」
耳の奥、鼓膜を直接針で抉るような、砂嵐混じりの囁き。
桜井葵は歩みを止めた。隣を歩いていた友人たちが「どうしたの?」と怪訝な顔をするが、葵の視線は彼女たちの背後、路地裏のコンクリートの壁に注がれていた。
そこには、人影があった。
いや、影に似た「何か」だ。輪郭は常にノイズのように揺らぎ、アスファルトに溶け出す黒いインクのように黒ずんでいる。
「……なんでもない。ちょっと目眩がしただけ」
葵は強張った笑みを浮かべ、友人の腕を促して歩き出した。視線を外しても、網膜の端には「境界」の歪みが焼き付いている。世界が、まるで古いフィルムのように小刻みに震え、色彩が薄れていくような感覚。
昔からそうだった。彼女には、他人には見えない「世界のバグ」が見えてしまう。
逃げるように帰宅したワンルームのアパート。
玄関の鍵を二重に閉め、背中をドアに預けてようやく安堵の吐息を漏らす。コンビニで買ったサラダとサンドイッチを適当に口に運び、シャワーを浴びる。蒸気に満ちた浴室で、葵は鏡の前に立った。
顔を洗い、濡れた前髪をかき上げる。
その時だった。
曇った鏡の表面、自分の右肩のすぐ後ろに、白濁した二つの眼球が浮かんでいた。
「っ!」
声にならなかった。
鏡の中の「それ」は、皮を剥がれたような赤剥けの顔を歪め、葵の首筋に長い指を伸ばそうとしている。鏡の向こうから、冷たい風が吹き抜けた。
物理的な接触を待たず、葵は浴室を飛び出し、サンダルを突っ掛けて夜の街へと駆け出した。
どこへ行けばいいのか。
自分でも分からなかった。ただ、あの部屋にいては飲み込まれる。
住宅街の古い抜け道。いつも通っているはずの路地に飛び込んだ瞬間、異変に気づいた。
街灯の明かりが、腐った果実のような毒々しい黄色に変じている。足元のアスファルトは泥沼のように粘つき、周囲の住宅の窓はすべて漆黒に塗り潰されていた。
「ここは……」
背後を振り返る。そこにはもう、通り過ぎてきたはずの国道も、駅の明かりも見当たらない。
壁から、天井から、液状化した「悪意」が這り出してくる。
のっぺりとした白い顔。それは鏡の中にいたものよりも巨大で、実体を持っていた。湿った土の臭いが鼻を突き、葵の周囲を取り囲む。
「やだ、来ないで……!」
膝が震えて動けない。追い詰められた行き止まりで、葵は瞳を閉じ、頭を抱えてうずくまった。
その時、乾いた高音が夜気を切り裂いた。
パン、という破裂音。
だが、それは葵がニュースで聞くような銃声とは違っていた。もっと冷たく、機能的な……「記録を消去するボタン」を押したような、平坦な音。
「観測、終了」
低く、抑揚のない男の声。
葵が恐る恐る顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
漆黒のロングコートを翻し、右手には見たこともない形状の、鈍い銀色に光る特殊な銃を構えている。
男の視線は、消滅していく怪異の残骸を冷淡に一瞥し、やがて地面に震える葵へと向けられた。
「……確保すべき対象は、こいつか」
彫刻のように整っているが、一切の情を排した鉄のような貌。瞳は深い紺色で、獲物を見るよりもさらに冷ややかな光を宿している。
「だ、誰……ですか」
葵の問いに、男は答えなかった。ただ、懐から取り出した何かの端末を操作し、葵の顔をスキャンするように見下ろす。
「警視庁捜査一課、氷室蓮だ。だが、お前に警察手帳を見せるつもりはない」
氷室と名乗った男は、銃をホルスターに収めることもなく、傲慢なまでに突き放した口調で言った。
「お前には『視る』才能がある。そして、その才能のせいで標的にされた。死にたくなければ、俺の指示に従え。これは命令であって、相談ではない」
言葉の内容を咀嚼する暇もなかった。
氷室は「現場の洗浄は終わった」と短く呟くと、葵を一人残して闇の中に消えていった。
気がつけば、街灯の明かりは元の青白さに戻り、遠くで深夜バスの排気音が聞こえてきた。
夢だったのではないか。
そんな淡い期待を抱きながら、葵はふらつく足取りで自宅へ戻った。
部屋に入り、ベッドに倒れ込む。
手のひらが、異常に熱い。
衣服を脱ぐ気力もなく、葵は右手を顔の前に掲げた。
「……、うそ」
月明かりの下、手のひらの中心に、火傷の跡のような痣が浮かんでいた。
複雑に絡み合った鎖のような、あるいは禁断の智恵を象った紋章のような、暗褐色の刻印。
指先でなぞっても消えない。
それは、葵の平穏な日常が、二度と取り戻せない「境界」に塗り替えられたことを告げる、死神からの契約書に見えた。




