44:そうして彼等は思い知る
セシルは嘘つきだ。
昨日は一緒に、と言っていた癖にヒルデガルドを先に馬車へ押し込むと、仕事は済んだとばかりに作り笑顔で手を振って自分は乗り込まず扉を閉めた。
自分が帰る馬車はどうするのだ、と取り留めのない事を一人揺れる車内の中、わざと考える。
彼の事だからもう一台呼んでいたのかもしれないとも思う自分の顔が磨かれた窓に映った。
可愛さの欠片もない酷い顔だ。
今にも泣きそうなのに泣くのを我慢するそれは、昨日のセシルと比べたら雲泥の差である。
揉んでも眼を閉じても中々平静に戻すのに時間が掛かったが、何とかラゲール侯爵邸に到着する前に真顔は装備出来た。
そう思いたい。
事前に話が通っていたのか、相変わらずの渋い佇まいの執事さんが出迎えて下さった。
今日は隣にセシルが一緒ではない旨を謝罪し、ともすればその場を失礼する気持ちを添えたが、相手は穏やかに微笑みながらそのまま奥へと案内を始めた。
「モーリス…君、の容態は如何ですか?」
何となく執事さんの前で呼び捨てを躊躇い、付けた事もない敬称を添える。
普段通りで構いませんよ、と相手は更に笑みを深め目尻の皺も深くした。
「意識を取り戻されてからは少し朦朧とされておりましたが、今はしっかりされておりますよ」
「そうですか…それは、良かったです」
「ええ、治療へも前向きなのは我々としても嬉しい限りです」
朗らかに微笑むこの人は、自分の使える大事な子息が怪我した原因がヒルデガルドを庇ったからだと知っているのだろうか。
勿論、知っているのだろう。
(…なのに、全く怒りを感じさせない…凄い人だな)
庇おうと動いたのはモーリスの意思だったとしても、結果、こうして重症を負った。
親身に、慈愛と共にこの執事さんが彼を守って来たのは、前回の短い訪問でも良く分かる程。
ヒルデガルドの立場で考えたら、こうも穏やかに居られない気がしてならない。
陽だまりのような温かい空気感はさておき、その泰然とした穏やかさはどこかモーリスに似ていた。
「デイビア様もお怪我を?」
「え?ああ…これは自業自得というか」
「差し出がましくもご進言致しますが、原因をどうお考えになろうとも怪我は怪我。
年寄としては若者はただ健やかに居て欲しいものなのですよ。
ふむ、後ほど侍医の往診が御座いますのでお嬢様も合わせてお受け下さい」
「滅相も御座いません、校医に治療を受けておりますのでお気持ちだけで十分です」
そこまで世話になるつもりなど毛頭ない。
執事さんの優しいお気持ちだけで、本当に、本当に充分である。
悲しそうに向けられた視線を眼力を込めて見つめ返す。
どうか伝わって欲しいこの気持ち。
要りません、大丈夫です、ご心配ありがとうございますでも不要です。
くっと軽く喉を鳴らす執事さんの笑顔が可愛くてちょっと胸が高鳴りつつ、止めていた歩みを進め、以前案内された部屋へと辿り着いた。
既に控えていた従僕が頭を下げ出迎えてくれるのを横目に、そのまままた寝室前まで通される。
「坊ちゃま、デイビア様がお越しですよ」
「入ってくれ」
少しくぐもった声に聞こえるのは扉のせいだろう。
それでもはっきりと届いた彼の返事に、ほっと密かに胸を撫で下ろす。
今日は流石に衝立の用意は無く、ベッドの上には紺地のシャツを纏ったモーリスがクッションを背にして上体を起こしていた。
両足は、負担の無い程度に吊られたままなのが痛々しいのに。
「ヒルデガルド」
あまりに嬉しそうに、幸せそうに彼が微笑むから、何だかちぐはぐだ。
執事さんが彼の身の回りで必要なものは無いか改めている間、侍従が音もなくワゴンで茶器を運び準備を進めている物音が静かに満ちる。
前回は目隠しがあったからか比較的ベッドの近くに置かれた一人掛けのソファーは、今日はモーリスが視線を合わせるのに負担が無いように彼の足元寄りに少し離れ置かれていた。
ヒルデガルドはそれをしっかりと目にするも、ソファーに長居するつもりは無い、と視線を戻す。
「元気そうで良かった…身体に怪我は?左手の火傷は聞いているけど他には?治療は受けた?」
「見舞われている人間は貴方でしょうに」
ベッドの傍らに近づき、立ったまま不躾にモーリスを見下ろして苦笑する。
顔色は悪くないものの消毒液の匂いが強くなったのが、心をざわつかせた。
「自分の状態は分かっているから、別に…」
「それは私も同じよ。痛みはどう?ちゃんと処方箋効いてる?眠れている?」
「休めているよ、同じ体勢には飽きたけど」
「我慢時ね、気晴らしになりそうな書籍でも持ってくれば良かったわ」
またしてもヒルデガルドは手ぶらだった。
今更、しまったなと顔を歪めるのをモーリスはただただ嬉しそうに笑って見ている。
「キミが来てくれたのが何よりもの気晴らしだよ…座って?」
彼が掌で用意された一人掛けのソファーを示す。
だがヒルデガルドは軽く頭を振り、ベッドの端に腰を下ろした。
予想外の動きだったのか、モーリスは水色の瞳を大きく見開いたまま硬直する。
「此処は話し辛い?」
「…………ぃや…」
「そ」
短く返し、頷けば、柘榴色の髪が肩から滑り落ちる。
侍従は一人掛けのソファー脇に置かれたテーブルにセットしていた茶器を、無言でベッド脇のサイドテーブルに二つ並べ直してくれた。
見覚えのある焼き菓子が乗った皿は一つ。
ありがとう、とヒルデガルドが何時かのように小さく呟けば、彼は二コリと笑って返し退室してゆく。
いつの間にか執事さんの姿もなく、寝室の扉は開いたままだが外の物音はしない。
「完治は来年かしら」
未だ固まったままのモーリスから視線を外し、吊るされた両足を見る。
片足だけでも物々しいのに、それが両足となると大掛かりなのだなと見当違いな事を考えた。
きっと騎士訓練学校の生徒であればこうした怪我も多いのだろう。
だがヒルデガルドの周辺ではこれほどの大怪我を負った人は今まで居なかったから、つい物珍しさもあって構造に意識が向いてしまう。
「卒業式には間に合うと良いわね」
「誰と出るの」
性急に、間髪入れず投げられた言葉に視線を引き寄せられる。
同じベッドの上と謂えども、手を伸ばしてやっと肩に触れる程の距離で二人見つめ合った。
学園の廊下で、窓に凭れて話していた時の方がよっぽど近い。
「僕はキミに負けた」
努めて冷静であろうとするモーリスの顔を見ていられなくて、ヒルデガルドはまた彼の、微かに揺れる両足を見ていた。
「貴方まで、そう言うのね」
予期せず震えた声が出た。
堪えようと、息を止めて唾を飲み込めば、自らの喉が鳴る音が鼓膜を震わす。
堪えなければ。
わざわざ言う必要などないのだ。
それが例え、唯一認めた好敵手だからとしても。
なのに唇は戦慄いた。
「私が上がった表彰台に、競った相手が居なかったのに?」
「それは」
「私が見たかった高みは、違うわ」
そう言葉にしたら、もう、駄目だった。
「貴方が隣に居ない」
「好敵手なんでしょう?」
「なんで、私一人にするのよ」
「…っ寂しい」
「寂しくてっ…堪らなかった…!」
ぼろぼろと涙腺が馬鹿になったように、溢れ零れる涙がヒルデガルドの頬を伝う。
しゃくり上げ、乱れる呼吸を抑えようと身体を奮わせ、黙ったままのモーリスを見据える。
何故彼までそんな、泣きそうな顔をしているのだろう。
「っなんで、なんでモーリスが、泣きそうなの」
「……」
「なん、とかっ!言いなさいよ!」
水色の瞳からぽろりと珠のような涙が落ちた。
「……悔しく、て」
ぽろり、ぽろり。
彼の滑らかな肌を弾かれるように滑り落ちてゆく。
本当、この男は綺麗に泣く。
「…くやし、い……キミに、負けた……」
「絶対に、勝ちたかった」
「試験も全部勝って、絶対に、キミと」
「一緒に…!」
息苦しそうにモーリスが顔を顰め、唾を飲み込んだ。
感情の波に堪らず、俯く彼はやはりポンコツだと思う。
そして意外と、馬鹿だ。
靴も脱がずにヒルデガルドはベッドに乗り上げ、その肩口にぐっと顔を埋めては彼の香りと、消毒液の匂いを吸い込む。
「なぐさめて」
乞い求めてやっと、背中に力強い腕が回った。
背がしなる程抱きすくめられ、安堵すると共に鼻筋を彼の首に埋める。
「私とモーリスの勝負なのに…文句言われる筋合い無いのに…周りっ煩いし」
「…ん」
「そもそも!私はっあんな、あんな結果は、不満!全然っ勝った気がしない…!
そ、れにっ気を抜いて、モーリス怪我させたの…悔しい…!!」
「ん」
ぐりぐりと駄々を捏ねるように泣きながらモーリスの肩へ顔を押し付け、愚痴を思うままに連ねる。
対して彼の相槌は随分適当だが、腕の中の体温を慈しむように何度もぎゅっと力を込め直し抱き締めてくれるのが心地良くて文句にもならない。
制服の襟元が彼の涙で温く、湿るのすら許容できる。
首筋を掠める肌の火照りも今や愛おしいだけだ。
「馬鹿、モーリスの馬鹿」
「…」
此処に来て相槌が途絶えた。
どうやら思うところがあるようだ。
「何?言いたい事あるなら言いなさいよ?」
「…障壁を解いてまで突っ込んで来るのは、ちょっと捨て身過ぎない?」
本当に不服だ、と感情が込められた讒言と共にまたぎゅうと身体を抱きすくめられた。
そういうところが馬鹿なのだと、言外に示すようにヒルデガルドの右腕がモーリスの背中を抱き締め、縋る。
「そういうところが本当馬鹿」
「僕は心臓が止まるかと」
「馬鹿、違う…違う」
遺憾の意を示して再び顔をぐりぐりと肩に押し付け、溜息を零す。
その吐息が首筋に掛かったのか、モーリスの身体がびくりと跳ねた。
緊張が手に取るように分かるのが愉快で、思わずまた鼻先を彼の首筋に埋めた。
眼前に対峙した相手が、己に敗れ視界から消えたって彼女は泣かない。
寂しいなんて微塵も思わない。
喪失を恐れ、その身を案じて。
自分らしくないと分かりながら無事を祈り、手を尽くすなどしない。
嫉妬も嫌悪も持ち前の傲慢さで弾き返せる程に、気質だって強い。
でも甘えたい時だって、ある。
バカだな、面倒なヤツだな、ポンコツだとすら思う。
最初は一面しか見えていなかったのは、お互い様なのかもしれない。
今だって全てが分かる訳じゃない。
ヒルデガルドの言葉を聞いてまだ的外れな愚痴を零しているのが証拠だ。
そうじゃないって、そうじゃない。
気が付けばくすくすと笑っている自分が居た。
ずっと胸の中に重く垂れこんでいた靄は晴れ、多幸感でふわふわする。
ゆっくりとヒルデガルドが腕を解けば、背に回された彼の腕も力を抜く。
あれだけ顔を肩に擦り付けたのに、まだ睫毛が涙で濡れているのが自分でも分かった。
「目元、冷やして」
得意でしょ?と呟きながら瞼を閉じる。
此処で素直に、冷やした手を当てるのが彼らしくて、また笑いが込み上げた。
どうしたって笑いが止まらず、ずっとお腹が震えている。
「ヒルディ」
「ん」
熱を帯びていた目元がじんわりとした程よい冷たさで解けてゆくのが心地良い。
身じろぐ気配も、唇に掛かる彼の吐息の熱さも気にならない。
「キミが好きだ」
「…ん」
「好きだ」
「うん」
「狂いそうなくらい、バカになる程」
「…ん」
「好き」
「ん」
ポンコツめ、分かれ。
こちとら口を閉じて待っているのだ。
そんな自分が自分じゃないようで、可笑しくてまた笑ってしまう。
「して」
本当に、らしくない。
相手に懇願するなんて、魔王の肩書が泣く。
それでも欲しいのだ。
好きな人からのキスが。
衣擦れも、ベッドの軋む音もしなかった。
それだけ近くに彼の顔があったのだろう。
初めてのキスはほんの少しだけ、本当に、触れるだけのようなもの。
狂いそうな程と言っていた割に随分軽いな、とヒルデガルドすら物足りなさを感じるような。
羽で撫で摩られた程度、最早相手の唇を感じる間も無く離れてしまった。
堪らずヒルデガルドが唇を戦慄かせた時、今度はもっとしっかりとその柔らかさと熱を感じた。
ちぅと音を上げ、軽く吸い上げられただけで甘く胸が痺れる。
その余韻を楽しむ間も無く堰を切ったように次から次へ、何度も唇を食まれる。
夢中になってモーリスの手に力が入ったのか、何時しか少し上を向かされ降り注ぐキスを浴びた。
甘えたヒルデガルドの喉が漏らす息すら捕まえようと絶え間なく、少し乾いた唇がそれを塞ぐ。
「――は」
ゆっくりと目元を覆っていた彼の手が退く。
零した吐息通り、恋に身を焦がした水色の瞳と目が合う。
「好きだ」
「好き」
「ヒルディ」
キスの合間合間に、うわ言の様にモーリスが唇を触れさせたまま囁く。
ああ、人の語る愛情ってこんなに耽溺するものなのだと背筋が震えた。
これは確かに、知能が溶ける。
「すき」
堪らず、本能のままヒルデガルドも唇を重ねたまま零せば、嵐のように激しくキスをされた。
その一つ一つが、まるで僕もだ、と語る様に思えて、取り零さないように必死で彼の胸元を握り締める。
早くも気付かれたのか、やわやわと心地良く下唇を食まれた後にもう一度、音を立てて唇が離れた。
鼻筋が当たる程顔を近づけ額を合わせたまま、上がった息が落ち着くのを待つ。
ゆるりと右手の指先で、モーリスの顎と左頬の間、僅かに擦り傷が残る輪郭を撫でた。
「…ヒルディ、それだめ」
「痛い?」
「違う、堪らなくなる」
「ふっかわい…ん」
仕返しとばかりにまた唇を塞がれ、顔を離せば涙の跡をキスで辿られる。
此方からは御礼として、涙ではない理由で朱を刷いた彼の目元にヒルデガルドも啄む様なキスを降らせた。
やっとひと心地着いたところでモーリスの手がきつくシーツを握り締めたままなのに気付く。
「我慢時?」
「そう、ほんと…天国で地獄」
「あはは!悪女の才能でもあるのかしら」
さも愉快だと笑うヒルデガルドを、穏やかな瞳がとろりとした色を湛えて見つめていた。
「…治療、最短で一か月だって」
「骨折ってそんな早いの?回復薬?」
「併用してその見立て」
乗り出していた身をクッションに沈めるモーリスを手伝いながらヒルデガルドが眼を瞬かせつつ、さっとそれを一つ抜き出して彼の腹部にぼふと置いた。
「…………」
「自然治癒にすれば?若くたって身体に負担あるでしょ」
肉体損傷を瞬く間に治すような魔導は存在しないが、治癒力を高める製薬はある。
そしてそれは患者が摂取し体内の魔力を循環させる事で効能を高めることが出来るのだ。
軽度の裂傷では患者の体力があるから良く使われるものであって、重症患者には体力的に使われない。
それくらいはヒルデガルドでも知っている。
「プロム…」
ぽつりとモーリスが拗ねた声で零した言葉に、ヒルデガルドはぐらりと怯んだ。
「一緒に出たいんだ、キミの隣で」
「そ、れは…嬉しいけど…」
「ドレスも全部一式贈らせて」
「モーリス」
「猶更キミの隣に誰かを立たせるつもりもないし、一人にさせる気もないよ」
見上げる水色の瞳が宿す意志の強さにたじろいだ隙に、右手が握られ指を絡ませられる。
「好敵手としてもそうだし、好敵手じゃなくたって、ヒルデガルドの隣は僕が立つ」
その一言で陥落した。
許してしまう程、自分は既に彼に絆されているのだと嫌程分からされた。




