29:ツラは貸すが出すとは言って無い
※ 途中で視点がコロコロ変わります、いつも以上に読みづらいです。
「デ・イ・ビ・ア・せんぱぁーい、ツラ貸してくださいっ」
「…………」
放課後になると、きゅるりと子猫のように瞳を躍らせ、愛らしさを全身に纏いながら上目遣いで媚び全開で駆け寄って来た後輩の攻撃の流れ弾を受け、教室の数人が胸を抑えて呻いていた。
台詞は全然可愛くないセシルを見下ろしたヒルデガルドは無言、無抵抗で腕を組まれ、いやほぼ連行に近い形で学園の玄関ホールへとすごすご向かう。
昨日、泣き出したモーリスを屋上までの階段へ引っ張り隠した後、彼は泣きすぎて――恐らくいつの間にか密かに過呼吸まで起こして――気を失った。
慌てて講師を呼び連れてくれば、ぐしゃぐしゃに涙と鼻水で顔を汚しぐったりとしたモーリスの姿に皆愕然としていたし、唇や掌は力み我慢をし過ぎたのだろう、出血していた様相に「酷い」と漏らす声が聞こえた。
応急処置をして運び出されるモーリスを横目に、聞き取りの講師から怪訝な視線をビシビシと受けながらもヒルデガルドは毅然とした態度で状況を、どうにか、説明したがハッキリ言って意味が分からなかったと思う。
『急に泣き出した彼が人の眼に晒されないよう此処に連れ出した後、泣きすぎて倒れました』
『………デイビアが、慰め…宥めて、いたのか?』
何となく言葉を濁された理由はヒルデガルドも嫌な方向で察した。
どう見ても性的暴行された被害者みたいな様子を、モーリスが漂わせていたからだ。
衣類の乱れなど胸元くらいしかないのに!顔面も涙や鼻水、加え血も零しているのに!なんであんな儚げな雰囲気を醸し出しているのだあの失神男は!
『いえ、泣いている理由を私は教えてもらいませんでしたので』
『君から尋ねなかったのか?』
『はい』
『…』
そりゃあ、泣いている人いれば大概は相手を心配して声を掛けるだのするかもしれないが。
本人のやりたいように泣かせておく人だって居ると分かっているのであろう、講師は言葉を噤む代わりに溜息を一つ落として眼をきつく閉じた。
『何か、ラゲールの悩みの種を君は知っているのか?』
『相談された事はありません』
嘘は言っていない。
モーリスはただ、己の感情を言葉に出来なくて自爆しただけだとヒルデガルドは推察しているが。
言われた訳じゃないし此処で言う事でもない。
講師の心労を思えば、ご苦労を掛けて申し訳ないがそれも職務の内だと納得して欲しい。
『…そうか、君はついていてくれた、だけ、なんだな…?』
『はい』
『ありがとう、後は私達で対応するから君は帰りなさい』
『失礼します』
教室に戻れば誰もおらず、流石にリリも退席していたようでヒルデガルドの鞄だけが机上にポツンと残されていた。
その上に折りたたまれた小さな紙が乗せられており、開けばリリの字で「先に寮帰ってる、がんばれ」の激励のような同情のような一言が添えられていて、物悲しさと友恋しさが募った。
寮に戻ればリリにまた洗い浚い吐き出し、何度も背を撫でられ慰められた。
一体どうしろというのだ。
なんだこの、遣る瀬無さは。
伸ばされた手を取って握り返してやればよかったとでも言うのか?
自分の感情に振り回されてるのを、一度は助けてやったじゃないか!
毎回、毎回、私が甘い顔をすると思わないで欲しい!
そういう優しい人が必要ならそっちに行けと背中を思いきり蹴り倒してやりたい!!
(『僕ら両想いでしょ!』みたいな対応求めないで欲しい…ほんとリリの言う通り)
講義中は抑えられていた不満が沸々と湧き上がるのを憎らし気に抑えるヒルデガルドの視界をどんどんと街並みが無為に流れてゆく。
「先輩と二人きりで馬車乗るの、何だかドキドキします」
「また校則違反の魔導具でも持ってるの?」
「も、もう持ってませんよぉ!なんでそんな事言うんですか!」
わざとらしく頬を膨らませて可愛い後輩アピールを欠かさないセシルは流石だ。
身に纏う衣服が変わっても性質が変わらないのはどことなく安心する、良い事である。
「動悸?緊張?疚しい事があるならさっさと吐いておしまいなさい」
「じゃあ、正直に話すので隣行っていいですかぁ?」
「私の隣は鞄が座っているから無理」
「鞄さーん、席交換しま…重っ?!えっ何入れてるんですこれ!」
躊躇わずにヒルデガルドの鞄を退かそうと手を伸ばすも、見かけよりずっと重く持ち上がらない鞄にセシルが驚愕に眼を丸くして、笑うヒルデガルドと鞄を交互に見比べる。
「放課後組み上げる予定だった魔導具も入っているのよ。
ここのところ時間取れなくて色々一気に、今日こそ片付けようと思ってたの」
「…それは、ごめんなさい」
しょぼりと気落ちして肩を落とし、背中を背凭れに戻すセシルの殊勝な態度を見ればヒルデガルドもそれ以上予定を狂わされた愚痴を言うつもりも失せた。
「良いの、今日サティにも…ああ、モーリスの友人なんだけど。
彼にもモーリスが休みだし昨日の様子が気になって、って相談されていたし」
「そうなんですね…サティ先輩も誘えば良かったかな」
控えめに微笑むセシルはそう零したが、きっと誘う気は無いのだろう。
ヒルデガルドは再び、つと窓の外に視線を向けた。
「で、リースお兄さまとデイビア先輩、何話していたんです?」
「会話してないわよ、ほんと全く、ほぼ無言よ」
取り付く島も無く、講師に答えた質問と似たような言葉を返し暫しの無言。
「リースお兄さま、ずーっとぼんやりしていて、抜け殻みたいなんですって」
独り言のようにセシルが零す。
彼もまた、ヒルデガルドと同じ窓の外を眺めていた。
「今朝、わた…僕が呼んでも、何も反応してくれなかったんです」
「昨日私が返事しても大した反応しなかったわよ、モーリス」
「…そうなんですか」
車輪の音がカラカラと整えられた道を滑るように進む音だけが馬車の中に満ちる。
雑踏は消え、窓の外は延々と続くような鉄柵と深い木々の緑だけ。
「偶々よ、彼が私の目の前で泣いたから、私が引っ張って連れ出しただけ」
「リースお兄さまを連れ出したのが別の人であれば、きっと馬車には、その別の人が座ってましたね」
「でしょうね」
「ですよ…だから、そんな顔をしないでください」
曇り一つなく磨かれ手入れの行き届いた窓なのに、光の具合だろうか、ヒルデガルドの顔を映し出しはしてくれなかった。
「埋め合わせに、美味しいお菓子を用意させますねっ!一緒に食べましょう!」
「侯爵家の魔導具工房とかも魅力的ね」
明るく声を弾ませ小さく握った手を振り、はしゃいでみせるセシルにヒルデガルドも意識して声を緩めて返した。
「ぶれませんねー先輩。僕とお茶じゃ物足りないんですかぁ?全力で可愛いで楽しませますよ?」
「ふふ、分かった、楽しみにしてる」
「任せてくださいっ!」
丁度、二人が乗った馬車が玄関前に滑らかに止まった。
セシルがいそいそと先に降り、張り切った様子でヒルデガルドへと手を差し出しエスコートする。
一生懸命な姿が微笑ましくて思わず笑ってしまうが、彼はそれでも嬉しそうに、降りた彼女の手をそっと自らの腕へと導いて歩き出した。
侯爵家の侍従達にヒルデガルドを紹介しているセシルの様子は如何にも我が物顔で、どれだけ彼がこの邸に出入りして受け入れられているのかを物語っていた。
高齢ながらもしゃんと背筋が伸びた執事の案内に従い長く広い廊下を歩く中、ヒルデガルドは一つの提案をした。
それには隣で聞いていたセシルも執事も、眼を丸くしたものの、すぐに頷き了承を示してくれた。
-------------------------------------
重厚なカーテンが纏められた大きな窓から差し込む日差しは柔らかく室内を満たしていた。
肌触りの良い寝具に身を滑り込ませたまま、背中に無数のクッションを当てた上半身を起こしたままどれほどの時間が経ったのだろうか。
身動ぎ一つしない部屋の主は、ぼんやりと幾何学模様が同色の糸で織り込まれたひざ掛けを見ていた。
見ていた、と称するのが果たして正しいのか。
彼の水色の瞳には何かが映ってはいるのだが、それを認識して思考している様子では無かった。
ただ何をするでもなく瞳がそこを向いている。
そんな具合が、今朝から、意識を取り戻してからずっと続いていた。
控えめなノック音と執事の低い声が聞こえるも、意味を捉えることなく萎んで消えてゆく。
成人男性が三人は横になれる大きな寝台の脇に何かが運び込まれたようであるが、残念ながらそれをモーリスは見る事もなければ反応することもない。
相変わらずのままだと、侍従の動きを監督しながら控えた執事はそっと目を伏せた。
やがて準備が整うと侍従達は礼をしてモーリスの寝室を出て行った。
残されたのは、主と執事だけだ。
「坊ちゃま」
そっと柔らかく執事が呼び掛けるも、モーリスの瞳も、乾ききった唇も微動だにしない。
微かに上下する胸元だけが、彼が作り物ではないと示していた。
「…坊ちゃま、ご学友の方がお見舞いに来て下さいましたよ」
昨日、学園で酷く憔悴して倒れ、邸に担ぎ込まれたモーリス。
何か恐ろしい目にあったのではないかと執事一同、邸の者は心が荒立ったが、話を聞くにそうではないらしい。
では何故、あんなに穏やかで優しい平穏の代名詞のような子息が、まるで嬲られるまま堪えたような姿で帰って来て、目覚めてからも意識を白濁させたままなのだろうか。
歯痒さに思わず執事の眉間に力が入った頃、控えめに扉が叩かれた。
許可の返答を返せば、そっと扉が開く気配と共に毛足の長い絨毯を踏みしめ熔ける足音がした。
かの客人は無言のまま、衝立でベッドの上が見えないよう仕切られた場に置かれた、一脚の椅子に腰かけた。
その脇に置かれたテーブルに侍従が香り高い紅茶と焼き菓子を静かに並べる。
「ありがとう」
音を立てぬよう教育された侍従の動きにすら掻き消されるような小さな声で、客人が礼を零した瞬間。
「―――――」
モーリスが顔を上げ、衝立の方を見た。
-------------------------------------
(流石侯爵家、侍従の教育も行き届いてるわぁ)
王都でも屈指の洗練された動きを目の当たりにして、何だかすごく高貴な気分だと非日常に浸りながらそっとヒルデガルドは紅茶に口を付けた。
初めて飲んだものだが、絶対に高いものだと分かるような味だった。
さて、と一度深呼吸をし心地を落ち着けた後、衝立の方へ視線を向けた。
先程ヒルデガルドがお願いした通り、お互いが見えない造りの衝立はベッドの高さまでとは言わないが、恐らくモーリスの背丈よりも高い大きなものだった。
「具合はどう?モーリス」
「―――…、…ル……」
衣擦れの音に消えそうな程小さいが、掠れたか細い声音が確かにあった。
「水分摂った?声出てないじゃない…勝手にしゃべるから黙ってても良いわよ、別に」
衝立の奥でがちゃがちゃと小さな物音、水が注がれる音がする。
恐らく、執事さんがモーリスに何か飲ませているのだろう。
静かな室内で、彼が嚥下する音はやたら大きく響いた。
「坊ちゃま、落ち着いてお飲みください」
「ッげほ!っはぁ…っ」
「坊ちゃま、執事さんの言う事は聞いた方が良いわよ」
「はぁ…はっ…」
ベッドの上にいるのであろうモーリスの姿は見えないのに、執事さんに窘められ背を撫でられているのだろうなと容易に想像出来てしまうのだから、何だか笑えてくる。
思わずヒルデガルドも茶化して、坊ちゃまと呼び掛けてしまった。
「熱とか出たの?」
「……」
「こういう時体調がどう変化するのか詳しくないから、大した事言えないんだけど」
「熱、は…ないよ」
先程よりかは滑らかなモーリスの声に、少しばかり安堵した。
「そう、それは良かったわね。眠れた?夢見た?」
「…ゆめ……は、…見てない」
「それだけ深く眠れたって事は身体は休めたのかもね、良い事だわ。
何か口にはしたの?食欲は?食べられそうなものあれば言った方が執事さんも喜ぶわよ。
因みに私は今美味しい焼き菓子をごちそうになっているわ」
「…………」
「まずはもう少し、消化の良いものを口にされては?」
「…そう、だな」
(おや、想像していたよりも随分自分の具合を把握しているじゃない)
「病床の人間に自慢して悪かったわね」
「いや…ウチの焼き菓子は、キミの口に合ったかい?」
「ええ、ナッツが入っているのすごく美味しいわ。
ちょっと塩味もあるの珍しいわよね、甘いだけじゃないの初めて食べた」
「…そっか、そうか」
言葉にやっと温度が出て来た。
「モーリスのオススメもあるのかしら?貴方は焼き菓子、どんなのがお気に入り?」
「僕はレモンのジャムとクリームが…」
「あ、これかしら?…うん、確かに美味しい、あ、この紅茶に合うのね」
高位貴族の茶会になどヒルデガルドは出席した事はない。
故に彼女のマナーなど侯爵家の人々からしたら顔を顰める程度かもしれないが、幸い、この部屋にはモーリスと執事とヒルデガルドの三人しかいないし、何なら二人は衝立で見えない。
周囲の視線を気にせず、だが話し相手が居るという不思議な空間で一人お茶を楽しむ。
「モーリスも何か食べる?お腹空いてこない?」
さっと衝立の奥から執事さんが出てきて寝室の扉から侍従に食事を受け取った。
いや、物音したの気付かなかったし、何なら最初から頼んでいたのか。
驚きに眼を瞬かせるヒルデガルドに執事はお茶目な表情を返し、優雅な足取りでまた衝立の奥に消えた。
先程までほぼ無音だった空間に他の音が、生活の気配がするのにほっとする。
-------------------------------------
「―――…何か、話してくれないか」
「マナー的に良いの?」
「今は気にしないで」
モーリスが食事を始めたのが分かったのか、衝立の先は黙ってしまった。
そうされると、気配はあるのに何だか不安になって食事の手も止まってしまう。
「ああそう?…ところでこの邸にもやっぱり工房ってあるの?」
何か話を、と求めたのは自分だけれども、言うに事欠いて魔導具の話をしだす彼女に思わず笑みが零れた。
「離れにあるよ、見に行く?」
「えっ!あー…いや、うーん…」
「どうかした?」
二つ返事で「見る!」と答えるかと思ったのにと、モーリスは少し寂しく思った。
脳内をサッと過った、見慣れた工房へ彼女を案内する自分の姿が霧散する。
「ここのところ中古魔導具だとか、既製品の改造だとか抱えているから、そこに更に侯爵家の工房とか見たらやらなきゃいけない事の優先順位ごちゃごちゃになりそうだなって」
要は目移りしてしまい自制を忘れてしまうのだと。
それでも様々な物事へ興味を持つ彼女が、あまりにも『らしく』て。
ふわりと内臓が持ち上げられるような浮遊感にモーリスは身を捩った。
「中古魔導具ってのは…サティ、から受け取ってたもの?」
考えるよりも先に口から零れた自分の言葉に、舌先が痺れた。
途端、胸の奥がぐるぐると不快に満ち溢れて思わず食事の皿を見下ろす。
殆ど食べ進めた食事が、やけに冷ややかに思えた。
「そ。でもその前に、今リリのところでお小遣い稼ぎしてるのを進めなきゃいけないのよ」
「…小遣い、稼ぎ?」
予期せぬ単語に再び視線を衝立へと向ける。
ああ、なんで此処に衝立が置かれているのだろうか。
「ちょっと入用でね…楽しいわよ、商品開発部にお邪魔していてね、まだ試作段階なんだけど。
誰かと一緒にあれこれ考えて作り上げるのって学園の課題でも殆どしないから新鮮で」
「確かに学園の講義では個人作業が多いね」
「モーリスはセシルとそういうのやるの?」
「セシーもだし、それこそサティと魔導祭の「いやいやいやいや待て待て待て、情報規制」」
その先は語ってくれるなとばなりに言葉を被せてくるヒルデガルドが可笑しくて、ふわふわする。
いつの間にか不快感は跡形もなく消え去り、ただただ、心地が良い。
衝立さえ無く、話す彼女の一挙一動が見れたならもっと。
「ダメ、この話題危ないから変えよう」
「駄目?」
「駄目」
「…だめ?」
「だめだって言ってるでしょ!」
彼女が「だめ」と言う度に、心が甘く痺れて口元がむず痒くて、力を入れてもゆるりと解けてしまう。
否定の言葉なのにもっと聞きたい。
昨日はあんなに怖かった言葉なのに、今はこんなにも欲しくて。
その声音が甘露のように耳朶を震わせる度に心が跳ねる。
見下ろす青紫の美しい瞳は何も語らなかった。
伸ばした指先は僅かに触れるも押し返され、翻る様に離れて行った。
思い出す度に息苦しさに胸が引き絞められる。
思い出そうとしなかったのに。
-------------------------------------
「……?」
そんなに強い口調で言ったつもりはないのだが、モーリスが押し黙ってしまった。
ほぼいつも通りに会話が出来たからうっかり失念していた。
彼は昨日失神する程情緒不安定だったと、ヒルデガルドが息を詰める。
「そ、んなに、魔導祭の話したいの?」
「……」
(何がそんな気に障ったのよ?!駄目?ダメって言ったのがいけないの?!)
「あー…じゃあ、お互いの手札の話を控えてしましょう」
「……」
「実は生徒会長がね、『日頃の鬱憤を晴らす時!』って意気込んでて、セルに対戦申し込みを」
「ごめんね」
「なにが」
急に話をぶった切って来たなポンコツめ。
頼む、ポンコツモードにならないように衝立置いたのだから、私が退散するまで持ちこたえてくれ。
「昨日、…サティと話しているのを、邪魔した」
「は…いや、別に預けていた部品の確認さえ終われば良いだけの話だったし」
ヒルデガルドは卓上の焼き菓子と紅茶の残量を横目で確認した。
満遍なく味は確認し、気に入ったものは残さず食べた。
(よし、何時でも退散出来る)
そうとなれば覚悟も決まる、と意気込み姿勢を正した。
「…モーリスこそサティと昨日約束があったのでしょう?今日も心配していたわよ」
「そうか…サティに謝らなければいけないね」
「私も謝ってもらうような話でも無いけど、モーリスが気になるなら謝罪は受け入れるわ」
「なら衝立を退かしてもいい?」
「待ちなさい」
執事さん!あなたの大事なお仕えする子息さんがポンコツですよ!
衝立を退かせる位置につかなくていいです!
「どうして」
「疑問を抱いたらまず自分の知識をもとに推論を立てる、当たり前でしょ?」
容易に答えばかりを求めるな、与えられると甘えるな。
そう言外にヒルデガルドが窘めた。
「怒っているのかと、思ったのだけれど」
「昨日、会話を邪魔したからって?私は気にしていないと答えたわよ」
推測が違うとだけは教えてやるのだ感謝して欲しい。
「怒ると『顔も見たくない』となるものでは?」
「私が怒った姿、貴方見た事あるでしょう?」
「……」
恐らく、去年フォーレ先輩をぶちのめした時や決闘騒ぎが起きた時を思い起こしているのだろう。
まさか覚えていないとかどうか言わないで欲しい、それこそ怒りたくなる。
暫く無音が続いたが、モーリスが身動ぎする衣擦れの音が衝立の奥から聞こえた。
「確かに…ヒルデガルドが怒った時と、今は違うけれど」
「良かったわ記憶にあって。決闘騒ぎの時とか貴方、周囲よりも私の魔導気にしてたし」
「だってそれはキミが一際凛々しくて…――」
「お褒め頂きありがとう?」
「綺麗だったんだ」
-------------------------------------
砂埃が光の中で乱雑に輝いて、吹き荒ぶ気配の中で翻る黒衣の制服を彩っていた。
周囲と一線を画し柘榴色の髪をたなびかせ真っ直ぐな背筋で佇む彼女に息を呑んだ。
戦場に差す一陣の光のように彼女だけが輝いていたのは、傍らに展開された魔導の帯びる魔力のせいじゃない。
その強い眼差しを伴った青紫の瞳と、目が合った瞬間。
(綺麗だ)
記憶の中と同じく、思い起こす今でさえ、息が止まる。
ヒルデガルドのその苛烈さを表すような、長い柘榴色の豊かな髪が視界を過る度。
自分すら知らない部分までを刺すような真っ直ぐに向けられる、青紫の宝玉のような瞳に見つめられる度。
普段は少し抑えて低めに話すのに、感情が昂ると、朗々と威厳すら伴い放たれる良く響く声音を耳にする度。
(綺麗で、心地良くて、…好ましい)
胸が苦しくて呼吸が出来なくなる。
窓辺に並んで立った時に初めて知った彼女の香り。
真剣さを帯びた面持ちしか知らなかったのに、嬉しそうに、期待に満ちて高揚で頬を染めて笑った顔。
柔らかな色味も似合うのだと初めて見た私服も、やっと見れた髪を結った姿も。
(ああ、好ましい、どころの話じゃない)
叫び出したくなるのだ、身体を霧散させそうな程の激情に。
可愛いという想いしか生まれなかった。
抱き締めたい衝動が、鼻先を首筋に埋めた理由が、その想いだけではなかった。
(『好き』だ)
するりと、荒れ狂う情動が縁取りを伴い意識に定着する。
形を知ればそれは華やかに謳うように、心のどこそこを打ち響かせながら血を滾らせた。
(僕は、彼女が『好き』だ…ああ、『好き』とは、こんなに)
思考を熔かすのに心地良く、そして香しく。
想いの赴くままに全てを委ねてしまいたくなるほどの多幸感。
ぐぅと熱を伴い疼く臓腑の痺れすら麻薬のような酩酊でしかない。
(好き、好きだ…彼女が…ヒルデガルド……好きだ)
成程知能低下とは的を得ている。
休日のあの「可愛い」は、確かにその通りなのだがほぼ「好き」が不随されていたのだろうに。
可愛くて好きで、好きで可愛くて、数秒も持たずに思い知らされ嬲られていたのだ。
それは知能も低下しようものだと今でも思うし、出直したところで自覚した今はただ、「可愛い」と共に「好き」と男の口から滑り落ちるだけだろう。
「――…ッ、―――…………」
今この瞬間ですら漏れ出しそうになるのを、モーリスは必死で留めた。
堪らず両手で顔を覆い、食器が音を立てて落ちるのも構わずその身を抱き締める。
そうでもしなければ抑えられない自身の情けなさに、また泣き出しそうになった。
(好きだ…!ああ、キミが好きなんだヒルデガルド!)
心配してだろう、肩に触れた執事の手を頭を振って断るのが精一杯。
これをどうか察してくれと言うのも、流石に悪いとは分かっているのだが顔を上げる余裕が無かった。
噴き出し今にも溢れそうな激情を力み過ぎて震えながらも抑えたのは、それこそ昨日があったから。
自分だけが知っていると思った姿を、自分が過ごしたかった幸福を、別の誰かが得ていたのだと知って、絶望と不安と、苛立ちと悲しみが綯い交ぜになって。
知らない息苦しさに泣いて悶えて、意識を手離した。
もう考えるのすら辛かった。
思い出すのすら封じ込めようと逃げた。
形の分からぬ、己の皮膚下で暴れる化け物を御せぬと何もかもを投げ出した。
(自分の感情を理解せず、勝手に恋慕と嫉妬で身を焦がし、彼女の前で醜態を晒した)
今になって、分かった。
「……この、衝立は……僕のためか」
自分の肌が泡立つ程情けない声が出た。
彼女のあの瞳は、立ち向かうものだけに、奮い立つものだけに向けて貰えるのだ。
薄暗い階段で泣き叫ぶだけの男には到底手が届かない。
衝立の先、昨日のようにただ静かに佇む彼女の気遣いか。
いや、これ以上彼女が、無様な男の姿を見たくないだけなのかもしれない。
(それでも、好きだ)
好敵手だと認め、真っ直ぐに見上げてくれる彼女の瞳に映っていたい。
己の想いの為に身を賭さんとする過激さと、密やかに贈られたいじらしい優しさを享受したい。
この身に溢れる愛おしさを伝え分からせたくなるのも、笑顔を見るのが嬉しいのも、声音一つで心躍るのも、ちょっとした仕草で血潮が昂るのも、全て、好きな人に恋をしているからだ。
(好きだ…ああ、もうそれしか考えられない、好きだ…ヒルデガルド)
「…ヒルデガルド」
「…なに?」
まるで階段でのやり取りとは違う、苦笑交じりの声音にまた心臓が激しく脈打つ。
昨日と打って変わって首筋までを赤くし蹲るモーリスは心から、衝立があって良かったとこの瞬間ばかりは思った。
(声すら、ああもう嬉しくなる…胸が苦しい、頭がふわふわする…好きだ…好きだ)
「――…話疲れた?食事もしたし、休んだら?」
「大丈夫」
「いや、めちゃくちゃ食器引っくり返した音とかしたし、休みなさいよ」
「…」
後先考えずに蹲ってしまった数分前の自分を責めたい。
いつの間にか足元で片付けてくれていた執事が、僅かに上げた視界の端で微笑んでいる。
「…そう、だね」
本音を言えばまだまだ話していたいし声を聴いていたい。
一緒に居たいし、許されるなら衝立も取り払いたいが、顔色が落ち着く気が全くしない。
寧ろ今後、顔を見て彼女とまともに話せるのだろうかとモーリスは自分が分からなかった。
「ん、じゃあ私もお暇するわ」
「ありがとうヒルデガルド…」
「どうぞお大事に」
「ああ…」
(好きだ…この流れを無視して行かないでって言ったら彼女は留まってくれるのだろうか…好きだ。
好きだ、ああ彼女が好きだ…引き留める術を考えたいのに纏まらない…好きで、知能が低下していくのに多幸感が止めどない、寂しさと恋しさが綯い交ぜだ…ヒルデガルド…)
動かない主を横目にさっと執事は立ち上がるとヒルデガルドの退出を手伝いに衝立の奥へ消えた。
未だ固まったままのモーリスは彼女の身動ぐ音すら聞き逃さぬよう意識を其方に注ぎ、やがて気配が遠のくとようやくそっと身体を起こしクッションに背中を預けた。
まだ顔だけでなく全身が心臓のように脈打ち、熱を持っているからか意識がぼんやりとする。
取り留めなく壁を見つめているが、潤んだ水色の瞳は陽炎を追うようにふらりふらりと揺れる。
血色を取り戻した薄い唇は薄く開かれ熱い吐息を何度も零した。
音も無く戻って来た執事はそれを見てにこやかな表情で頷くと、侍従に衝立を取り払い、彼女が居た形跡を片付けようとする。
「すまないが椅子はそこに置いたままでいてくれないか?」
そうモーリスが告げれば頷き一つで侍従の手が椅子から離れる。
然程の時間を置かずに寝室はほぼ元通りにされ、ベッドにはモーリスだけが取り残された。
「……ヒルデガルド…」
万感の籠った吐息と共にその名を呟き、蕩けた瞳で暫く、彼は椅子を見つめ続けた。




