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第32話 偵察前の一コマ

今日は、エリファーが密かに楽しみにしていた軍の偵察の日だった。


ウィル王国は軍事国家であり、各地の兵の練度や配置状況を定期的に確認する制度がある。王家や上級貴族が視察に訪れることも珍しくはないが、今回エリファーが向かうのは、そうした表向きの訪問ではない。


――変装して、こっそり見に行くのである。


「ふっふっふ……ついにこの日が来たわね」


朝の支度部屋で、エリファーは鏡の前に立ちながら満足げに腕を組んでいた。


頭にはつばの広い大きめの帽子を深くかぶり、金色の髪はすべて中へ押し込んでいる。緑の瞳も影に隠れ、ぱっと見では顔立ちすら分かりにくい。服装はわざとサイズの合っていないだぼだぼのサペロットで、肩は落ち、袖は手先まで隠れていた。裾も長く、全体的にぶかぶかとしている。


足元には、何年も履き潰したような色褪せた靴。わざわざ土まで擦りつけたらしく、かなり年季の入った見た目になっていた。


「私ったら完璧じゃーん!!!」


しかもなぜか声まで変えている。高めで少し鼻にかかった少年のような声だった。


聖女は普段、公の場ではベールを被るため素顔を見られることは少ない。体格も衣装で誤魔化しているため、変装自体は理にかなっている。だが、ここまで徹底して靴まで汚す必要があるのかは誰にも分からない。


おそらく、前世から染みついた癖なのだろう。姿を変える時は、声も変える。そういう習慣が身体に刻まれているのだ。


そこへ部屋の外から、明るい声が響いた。


「聖女さまぁ〜〜、準備できましたか?」


「ばっちりょおー」


扉が開く。


次の瞬間。


「いやぁぁぁぁぁ!!!!!!」


ルフィーネの悲鳴が屋敷中に響き渡った。


扉の前に立っていたのは、だぼだぼの服に汚れた靴を履き、帽子の影で顔も見えない小柄な人物。どう見ても正体不明の不審者である。


ルフィーネは顔を真っ青にし、胸元を押さえながら後ずさった。


「子供っ!? こどもの不審者ぁー!? ……って、驚かさないでくださいよ!」


「いや、あんたが勝手に驚いたんでしょ?」


帽子の下から呆れた声が返ってくる。


その頃にはロイアントも支度を終えており、深いため息をつきながら現れた。


「……本当にその格好で行くのですか」


「当然でしょ。完璧な潜入任務よ」


「不安しかありません」


こうして三人は馬車へ乗り込み、軍の本拠地へ向かった。


数時間後。


まだ街へ入る前だというのに、遠くから地鳴りのような声が聞こえてくる。


「まだまだぁぁぁ!! あと五百回!!」


「サーイエッサー!!」


腹の底から響く怒号と返事が風に乗って届き、窓ガラスが微かに震えた。


エリファーは馬車の中で眉をひそめる。


「……だいぶうるさいわね」


「訓練ですから」


「これ公害じゃない?」


だが周辺の住民たちは慣れたものらしく、洗濯物を干しながら「今日も元気やなあ」「この国を守ってくれてるんやからありがたいわ」と穏やかに笑っていた。


しかし。


「うぉぉぉーー!! イエッサー!!」


「……いや、やっぱり結構うるさいわね」


エリファーは真顔で言い直した。


軍の本拠地があるこの地域は、王都から馬車で数日かかるほど離れた場所に位置している。広大な土地に訓練場、兵舎、武器庫が並び、周囲には軍関係者向けの街まで形成されていた。


なお、ヴァロイアント家の別荘は比較的近くにあるため、今回の移動は五時間ほどで済んでいる。


馬車を降りたエリファーは、街道沿いに立ち並ぶ屋台を見て目を輝かせた。焼けた肉の香ばしい匂い、砂糖をまぶした焼き菓子の甘い香りが風に流れてくる。


「ロイアント。私、今とても真面目に考えています。今、自分が何をするべきなのか」


ロイアントは少し感動したように目を細めた。


「そうですか。それは嬉しいです」


「ええ。この串焼きと焼き菓子の屋台を順番に回りましょう」


「何言ってるんですか?」


一瞬で笑顔が消えた。


こめかみに青筋が浮かび、頬が引きつっている。


「軍の本拠地へ行く前に、なぜ屋台巡りになるんですか。そんなことしていたら隣国まで着きますよ?」


「でも、せっかく街に来たんだから、ね?」


エリファーは帽子の下から上目遣いで見上げる。


「ダメです。あとでもできますよね!?」


「今の焼き加減は今しかないのよ!」


「知りません!」


ロイアントの怒声が響く。


通行人たちがちらりと視線を向ける中、エリファーはじたばたと抵抗したが、細腕とは思えぬ力でずるずると引きずられていった。


こうしてこの国の聖女とは到底思えない姿のまま、エリファーはロイアントに連行されながら軍の見学へ向かうのだった。

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