第31話 歴史
「では、本日は本当にありがとうございました」
穏やかで丁寧な声音とともに、レイン王子はゆっくりと頭を下げた。屋敷の玄関ホールには夜の静けさが満ちており、外から差し込む月明かりが彼の黒髪を淡く照らしている。つい数時間前まで青白く不安定だった顔色も、今はすっかり落ち着きを取り戻し、血色も戻っていた。まだ完全に万全とは言えないまでも、呼吸は安定し、視線にも芯がある。あの裏道で倒れていた時の危うさは、もう感じられなかった。
エリファーはその様子を少し離れた位置から見て、小さく息を吐いた。
(……うん、大丈夫そうね)
胸の奥に残っていたわずかな緊張が、ようやくほどける。あの呪いは確かに厄介なものだったが、完全に解除できている手応えはあった。少なくとも今すぐ命に関わることはないだろう。
王子は最後にもう一度だけ視線を向け、どこか名残惜しそうに微笑んだあと、屋敷を後にした。その背中が扉の向こうに消えるまで見送ってから、エリファーはくるりと踵を返す。
その瞬間、すぐ背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「聖女様ぁ〜、明日は軍の偵察任務がございますから、もうお休みください」
ルフィーネがやや呆れたような、それでいてしっかりとした口調で言う。だがその表情には、主を気遣う優しさがにじんでいた。
エリファーはその言葉に、ほんの少しだけ眉をひそめる。
「えぇ……でもまだ20時だよ?」
窓の外は確かに夜だが、体感的にはまだ“寝る時間”ではない。こんな時間にベッドに入っても、目が冴えてしまって余計に眠れなくなるのは目に見えている。
「このまま寝ても絶対目バッキバキになるって……」
少し不満げにそう呟くエリファーに、ルフィーネは軽くため息をついた。
「もう……聖女様は本当に……」
呆れ半分、諦め半分といった声音だったが、すぐに柔らかく表情を緩める。
「ではせめて、あまり遅くならないようにしてくださいね」
「うん、本を読んでから寝る」
そう言ってエリファーは軽く手を振る。
ルフィーネから図書館の鍵を受け取ると、そのまま屋敷の奥へと足を進めた。
廊下は静まり返っており、足音だけが小さく響く。壁に掛けられたランプの灯りが、ゆらゆらと揺れて影を落としている。その光の中を抜けるようにして、エリファーは屋敷内の図書館へと向かった。
重厚な扉を開けると、そこには紙とインクの匂いが満ちていた。
高い天井まで届く本棚がいくつも並び、ぎっしりと詰め込まれた書物が静かに眠っている。窓から差し込む月明かりと、卓上ランプの柔らかな光が混ざり合い、どこか神聖な雰囲気すら漂っていた。
エリファーがここに来たのには、ちゃんと理由がある。
(……王家のこと、ちゃんと調べないと)
今日の出来事、そしてレイン王子にかけられていた呪い。それらは偶然で片付けられるようなものではない気がしていた。何かが裏で動いている、その感覚が消えない。
軍事国家であるウィル王国。その中心にいる王家について知ることで、あの呪いの正体や背景に近づけるかもしれない。
そう考え、エリファーは数ある本の中から、特に古い歴史書を選び取った。
ページをめくるたびに、乾いた紙の音が静かに響く。
そこには、王国の成り立ちが記されていた。
ーー旧独立歴1500年、ウィル王国は隣国との戦争に勝利し、その領土を吸収する形で新たな国家を築いた。それが独立歴1年の始まりである。
ーーこの戦争の勝因として、聖女の加護が大きく覚醒したことが記録されている。
エリファーはその一文に、ほんのわずかに視線を止めた。
(やっぱり、聖女って戦争に直結してるのね)
ページをめくる。
ーーウィル5世の息子、ウィル6世が現在の国王であり、その王には五人の子がいる。
第一王女 キャザリー
第二王女 マリー
第一王子 アレクサンダー
第三王女 リンナ
第二王子 レイン
さらに読み進める。
ーー第一王女と第三王女は正妻リンファ王妃の子であり、第二王女は第二夫人メルーサ、第一王子は第三夫人アリサビュートの子である――
そこで、エリファーの指が止まった。
ページをめくる手が、わずかに止まる。
(……あれ?)
小さな違和感。
言葉にするには曖昧だが、確かに引っかかる何かがあった。
(第二王子の母親……書いてない?)
視線をもう一度文字の上に滑らせるが、やはり名前がない。“故人”という記述だけが、淡々と添えられている。
(しかも……)
エリファーは顎に手を当て、少しだけ考え込む。
(私、自分の加護ちゃんと知らないのよね)
聖女は生まれた時から神の加護を受けているとされているが、具体的に“どの神の加護か”が判明するのは17歳の時、協会での儀式によってだ。
「光属性なのは分かるけど……それ以上は不明、か」
ぽつりと呟く。
「あと2年……」
まだ先の話だ。
そう思いながら、エリファーは机に軽く突っ伏した。木の冷たさが頬に伝わる。
ぼんやりとページを眺めていた。今本で見た内容を呟く。
「母親の名前が無い第二王子……現在17歳で、母親は既に死亡……しかも亡くなったのは出産直後……」
胸の奥に、妙なざわつきが残る。
だがそれ以上深く考える気にはなれなかった。
「……もおいいや、寝よ」
あっさりとそう結論づけると、エリファーは立ち上がった。
静かな図書館には、再びページを閉じる音だけが残っていた。




