表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

34/34

第33話 価値

「……いい匂い」


軍の見学受付所の前に並びながら、エリファーは鼻先をひくりと動かした。風に乗って流れてくるのは、焼いた肉の香ばしい匂いと、砂糖を絡めた焼き菓子の甘い香りだった。近くの屋台通りから漂ってくるらしく、空腹を刺激するには十分すぎる誘惑である。


「まだやってるんですか?」


隣に立つロイアントが、半ば呆れたように低い声を漏らした。彼の額にはうっすらと疲労の色が浮かんでいる。朝から振り回され続けているのだから当然だった。


そんな二人は、軍施設の見学受付の順番待ちをしていた。周囲には家族連れや若者たち、地方から来たらしい旅装の者まで多く、思っていた以上に賑わっている。


「もう十五分待ってるわよ? そんなに人気なの?」


エリファーは帽子のつばを押さえながら不満げに頬を膨らませた。


「こらこら……今の貴方は平民の娘です。言葉遣いを思い出してください」


今回の偽装設定は、農民のロイアントとその娘ということになっている。エリファーは平民の少女“マリア”として潜り込む予定だった。


「執っっっ……オトウサン、マチクタビレタワ」


「なんて言う大根演技なんだ……せっ……ムスメよ」


二人の芝居は悲惨な出来だった。


エリファーは前世で数々の潜入任務を経験してきたが、どうやら“素朴な娘役”だけは一度もやったことがないらしい。抑揚のない棒読みと、不自然なカタコト口調がひどい。対するロイアントも、娘役に振り回されている父親というより、ただ困っている執事である。


「二組でお待ちのエリー様ー」


受付係の声が響いた。


「はーい」


ロイアントが即座に手を挙げる。偽名の“エリー”を使っているらしい。ここまでは一応順調だった。


その時だった。


背後から、誰かの手がエリファーの肩に触れた。


反射だった。


エリファーは振り返るより先にその手首を掴み、椅子の背を蹴って身体を浮かせると、その勢いのまま足を振り抜いた。


鈍い音が響く。


「誰ですか?」


「ぎゃぁぁぁっ! せっっっ……ムスメよ、何をやっているんだ!」


ロイアントが慌てて頭を下げる。もちろん演技半分、本気半分だった。


そこに立っていた男は腹を押さえながらも、苦しそうな顔一つ見せず、むしろ楽しげに笑っていた。


「いやいや、びっくりさせちゃってごめんね? お嬢さん、僕は君たちの案内役だよ」


その男を見て、エリファーは一瞬だけ目を丸くした。


背は高く、足はすらりと長い。細身の体躯だが姿勢は美しく、無駄がない。長い睫毛に整った鼻筋、柔らかな口元。水色の髪がさらりと揺れ、その顔立ちは思わず見惚れるほど端正だった。


「私、知らない人に掴まれて蹴っちゃいました。ごめんなさい」


「いやいや。むしろ今の動き、君かなり素質あると思うよ」


「素質?」


「僕と同業のね」


同業――軍人という意味だろうか。


エリファーは首を傾げながらも、先ほど蹴った感触を思い返していた。


(……あの人、細そうなのに腹が鉄みたいだったのよね)


普通の人間ではない。鍛え方が異常だ。


そう思って、じっと男の腹部を見つめる。


不思議そうに男が笑った。


「さっきからどうしたの? お名前は?」


「えーっと……まっ、マリアです」


咄嗟に出た偽名だった。


男はにこりと微笑み、距離を詰める。


「さっきから僕のこと見てるけど、もしかして惚れちゃった?」


そう言いながら、水色の髪を揺らし、きらきらした顔面を真正面へ寄せてくる。近い。かなり近い。


だがエリファーは微動だにしない。


「美形さん。もしかして貴方、腹筋バキバキなの?」


「……ん?」


予想外すぎる返答に、男の笑顔が一瞬止まった。


「僕の名前は美形じゃなくて、パーソンだよ」


「へぇー、パーソン君。お腹見せて」


「なんでかな?」


「さっき蹴った時、鉄みたいに硬かったんだもの」


その言葉に、パーソンの目がわずかに細くなる。


この少女、ただの平民ではない。


一撃で鍛え抜かれた肉体を見抜き、しかも平然としている。見た目の幼さに騙されてはいけないと、本能が告げていた。


「こらこらムスメよ! 失礼じゃないか!」


ロイアントが慌ててエリファーの肩を引く。早く軍の偵察に移りたいのだろう。


「まあまあ、お父さん。とりあえず軍の見学に行きましょうか」


パーソンは何事もなかったように笑い、二人を案内し始めた。


歩きながら彼は考える。


(あの子供……いや、変装だな。十四、十五くらいの少女か。脚だけで僕の身体を見抜くとは、相当な実力者だ)


やがて訓練場の観覧席へ通された。


「あー、エリーさんですか?」


「はい」


「こちらへどうぞ」


ロイアントが礼を言い、椅子へ腰掛ける。


その横で、エリファーは急に黙り込んだ。


周囲の兵士たちを見つめながら、眉を寄せている。


どこも不自然ではない。姿勢も、動きも、表情も、訓練された軍人そのものだ。


なのに、妙な違和感がある。


腹の奥がざわつくような、落ち着かない感覚。


「あぁ……そういう事か」


エリファーは小さく呟くと、目を細めた。


兵士たちの奥深く――魂の層を見るように集中する。


そこには、内側で燃えるような魔力の火種が見えた。


(……全員、同じ量)


ありえない。


平民に魔力は基本宿らない。魔力を持つのは高位貴族の血筋に限られるはずだ。それなのに、この場の兵士たちは皆、均等な魔力量を持っている。


誰かが与えている。


それも大量に、計画的に。


「こうしちゃいられない」


エリファーは立ち上がると、パーソンへ視線を向けた。


「パーソンさん。少し聞きたいことがあるんですが、いいですか?」


「いいですよ」


ロイアントへこっそり合図を送り、エリファーはパーソンを廊下へ連れ出した。


人目のない石造りの通路。窓から差し込む光が床に細長く落ちている。


エリファーは振り返り、まっすぐに問いかけた。


「軍人達に魔力投与をしているのは、貴方ですか?」


「なんの事ですか?」


とぼけた笑み。


だがその目は笑っていない。


当たりだ、とエリファーは確信した。


「軍には平民出身も貴族出身もいます。でも全員が同じ魔力量なんてありえません」


パーソンの眉がぴくりと動き、口元がゆっくり吊り上がる。


「へぇー。なんで? 平民でも魔力持ってるかもよ? 平民出身の君に何が分かるの?」


試している。


エリファーは一歩も引かなかった。


「貴方、この国の人じゃないですよね」


その瞬間、パーソンの目が大きく開かれる。


「……は?」


「どれだけ言葉を練習しても癖は残るものです。そんな癖も隠せない人が潜入捜査なんて、向いてないんじゃない?」


一瞬の沈黙。次の瞬間。


「ふふっ……あははははっ!」


パーソンは腹を抱えて笑い出した。


その笑みには歓喜が滲んでいた。


彼はずっと探していたのだ。この国で、自分が仕える価値のある者を。

あの人に仕えるよりも、もっと自分の心を揺さぶるほどの主人を探していた。


そのためにわざと癖も残したし、魔力オーラも微かに発していたのだ。見抜いた人間は現れなかった。


誰一人見抜けなかった癖を、この少女だけが見抜いた。


「いいね。いいよ」


笑いながら、パーソンは囁く。


「軍人達への勝手な魔力投与をやめて欲しいんだよね?」


「そうですよ」


エリファーが堂々とした態度で見つめている。


「じゃあ、うちに来なよ。アルファ帝国にね」


その言葉が落ちた瞬間、窓辺のカーテンがふわりと揺れた。


風かと思った次の瞬間。


パーソンの姿は、そこから消えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ