第33話 価値
「……いい匂い」
軍の見学受付所の前に並びながら、エリファーは鼻先をひくりと動かした。風に乗って流れてくるのは、焼いた肉の香ばしい匂いと、砂糖を絡めた焼き菓子の甘い香りだった。近くの屋台通りから漂ってくるらしく、空腹を刺激するには十分すぎる誘惑である。
「まだやってるんですか?」
隣に立つロイアントが、半ば呆れたように低い声を漏らした。彼の額にはうっすらと疲労の色が浮かんでいる。朝から振り回され続けているのだから当然だった。
そんな二人は、軍施設の見学受付の順番待ちをしていた。周囲には家族連れや若者たち、地方から来たらしい旅装の者まで多く、思っていた以上に賑わっている。
「もう十五分待ってるわよ? そんなに人気なの?」
エリファーは帽子のつばを押さえながら不満げに頬を膨らませた。
「こらこら……今の貴方は平民の娘です。言葉遣いを思い出してください」
今回の偽装設定は、農民のロイアントとその娘ということになっている。エリファーは平民の少女“マリア”として潜り込む予定だった。
「執っっっ……オトウサン、マチクタビレタワ」
「なんて言う大根演技なんだ……せっ……ムスメよ」
二人の芝居は悲惨な出来だった。
エリファーは前世で数々の潜入任務を経験してきたが、どうやら“素朴な娘役”だけは一度もやったことがないらしい。抑揚のない棒読みと、不自然なカタコト口調がひどい。対するロイアントも、娘役に振り回されている父親というより、ただ困っている執事である。
「二組でお待ちのエリー様ー」
受付係の声が響いた。
「はーい」
ロイアントが即座に手を挙げる。偽名の“エリー”を使っているらしい。ここまでは一応順調だった。
その時だった。
背後から、誰かの手がエリファーの肩に触れた。
反射だった。
エリファーは振り返るより先にその手首を掴み、椅子の背を蹴って身体を浮かせると、その勢いのまま足を振り抜いた。
鈍い音が響く。
「誰ですか?」
「ぎゃぁぁぁっ! せっっっ……ムスメよ、何をやっているんだ!」
ロイアントが慌てて頭を下げる。もちろん演技半分、本気半分だった。
そこに立っていた男は腹を押さえながらも、苦しそうな顔一つ見せず、むしろ楽しげに笑っていた。
「いやいや、びっくりさせちゃってごめんね? お嬢さん、僕は君たちの案内役だよ」
その男を見て、エリファーは一瞬だけ目を丸くした。
背は高く、足はすらりと長い。細身の体躯だが姿勢は美しく、無駄がない。長い睫毛に整った鼻筋、柔らかな口元。水色の髪がさらりと揺れ、その顔立ちは思わず見惚れるほど端正だった。
「私、知らない人に掴まれて蹴っちゃいました。ごめんなさい」
「いやいや。むしろ今の動き、君かなり素質あると思うよ」
「素質?」
「僕と同業のね」
同業――軍人という意味だろうか。
エリファーは首を傾げながらも、先ほど蹴った感触を思い返していた。
(……あの人、細そうなのに腹が鉄みたいだったのよね)
普通の人間ではない。鍛え方が異常だ。
そう思って、じっと男の腹部を見つめる。
不思議そうに男が笑った。
「さっきからどうしたの? お名前は?」
「えーっと……まっ、マリアです」
咄嗟に出た偽名だった。
男はにこりと微笑み、距離を詰める。
「さっきから僕のこと見てるけど、もしかして惚れちゃった?」
そう言いながら、水色の髪を揺らし、きらきらした顔面を真正面へ寄せてくる。近い。かなり近い。
だがエリファーは微動だにしない。
「美形さん。もしかして貴方、腹筋バキバキなの?」
「……ん?」
予想外すぎる返答に、男の笑顔が一瞬止まった。
「僕の名前は美形じゃなくて、パーソンだよ」
「へぇー、パーソン君。お腹見せて」
「なんでかな?」
「さっき蹴った時、鉄みたいに硬かったんだもの」
その言葉に、パーソンの目がわずかに細くなる。
この少女、ただの平民ではない。
一撃で鍛え抜かれた肉体を見抜き、しかも平然としている。見た目の幼さに騙されてはいけないと、本能が告げていた。
「こらこらムスメよ! 失礼じゃないか!」
ロイアントが慌ててエリファーの肩を引く。早く軍の偵察に移りたいのだろう。
「まあまあ、お父さん。とりあえず軍の見学に行きましょうか」
パーソンは何事もなかったように笑い、二人を案内し始めた。
歩きながら彼は考える。
(あの子供……いや、変装だな。十四、十五くらいの少女か。脚だけで僕の身体を見抜くとは、相当な実力者だ)
やがて訓練場の観覧席へ通された。
「あー、エリーさんですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
ロイアントが礼を言い、椅子へ腰掛ける。
その横で、エリファーは急に黙り込んだ。
周囲の兵士たちを見つめながら、眉を寄せている。
どこも不自然ではない。姿勢も、動きも、表情も、訓練された軍人そのものだ。
なのに、妙な違和感がある。
腹の奥がざわつくような、落ち着かない感覚。
「あぁ……そういう事か」
エリファーは小さく呟くと、目を細めた。
兵士たちの奥深く――魂の層を見るように集中する。
そこには、内側で燃えるような魔力の火種が見えた。
(……全員、同じ量)
ありえない。
平民に魔力は基本宿らない。魔力を持つのは高位貴族の血筋に限られるはずだ。それなのに、この場の兵士たちは皆、均等な魔力量を持っている。
誰かが与えている。
それも大量に、計画的に。
「こうしちゃいられない」
エリファーは立ち上がると、パーソンへ視線を向けた。
「パーソンさん。少し聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「いいですよ」
ロイアントへこっそり合図を送り、エリファーはパーソンを廊下へ連れ出した。
人目のない石造りの通路。窓から差し込む光が床に細長く落ちている。
エリファーは振り返り、まっすぐに問いかけた。
「軍人達に魔力投与をしているのは、貴方ですか?」
「なんの事ですか?」
とぼけた笑み。
だがその目は笑っていない。
当たりだ、とエリファーは確信した。
「軍には平民出身も貴族出身もいます。でも全員が同じ魔力量なんてありえません」
パーソンの眉がぴくりと動き、口元がゆっくり吊り上がる。
「へぇー。なんで? 平民でも魔力持ってるかもよ? 平民出身の君に何が分かるの?」
試している。
エリファーは一歩も引かなかった。
「貴方、この国の人じゃないですよね」
その瞬間、パーソンの目が大きく開かれる。
「……は?」
「どれだけ言葉を練習しても癖は残るものです。そんな癖も隠せない人が潜入捜査なんて、向いてないんじゃない?」
一瞬の沈黙。次の瞬間。
「ふふっ……あははははっ!」
パーソンは腹を抱えて笑い出した。
その笑みには歓喜が滲んでいた。
彼はずっと探していたのだ。この国で、自分が仕える価値のある者を。
あの人に仕えるよりも、もっと自分の心を揺さぶるほどの主人を探していた。
そのためにわざと癖も残したし、魔力オーラも微かに発していたのだ。見抜いた人間は現れなかった。
誰一人見抜けなかった癖を、この少女だけが見抜いた。
「いいね。いいよ」
笑いながら、パーソンは囁く。
「軍人達への勝手な魔力投与をやめて欲しいんだよね?」
「そうですよ」
エリファーが堂々とした態度で見つめている。
「じゃあ、うちに来なよ。アルファ帝国にね」
その言葉が落ちた瞬間、窓辺のカーテンがふわりと揺れた。
風かと思った次の瞬間。
パーソンの姿は、そこから消えていた。




