第28話 安堵
昔の夢を見た。
冷たい石の感触が背中に広がる、あの嫌な夢だ。
ここはこの国の王城。自分は第2王子として生まれた以上、常に兄弟の中で強く、優れていなければならなかった。誰よりも剣を振るい、誰よりも戦える存在であること。それが王族として当然の義務だと、幼い頃から言い聞かされてきた。この国の王族は女男関係なく戦闘経験を積む必要がある。
だが、幼い頃の僕は弱かった。
兄弟たちの中で、剣の技術は一番下。体も小さく、腕力もなかった。
王城の訓練場では、毎週のように兄弟同士で剣の試合が行われていた。そしてその週で一番弱かった王子は、“折檻部屋”に連れて行かれる。
折檻部屋――そう呼ばれているだけで、実際にはただの石造りの小部屋だった。窓は小さく、昼でも薄暗い。床には寝具などなく、冷たい岩がむき出しのまま。そこに二日間、閉じ込められる。
食べ物も、水も与えられない。
ただ静かな暗闇の中で、時間が過ぎるのを待つしかない。
僕は五歳の頃から八歳までの三年間、剣の試合でずっと最下位だった。
だから折檻部屋に入るのは、いつも僕だった。
毎週のように、あの部屋の重たい扉が閉じる音を聞いた。冷たい岩の床に身体を丸め、腹の奥から込み上げてくる空腹と喉の渇きに耐えながら、ただ時間が過ぎるのを待った。
兄弟たちは誰も来ない。
助けてもくれない。
王族とはそういうものだと、幼いながらに理解していた。
だが変わったのは、身体が大きくなり始めてからだった。
十歳を過ぎ、腕に力がつき始めた頃から剣の動きが変わった。十一歳になった頃には、兄弟の中で一番強くなっていた。
剣の試合で負けることはなくなり、折檻部屋に連れていかれることもなくなった。
代わりにそこへ入れられていたのは、一歳年上の第3王女だった。
――そこで夢は終わる。
冷たい岩の上で身体を丸めて眠っていた、あの頃の感覚。
だが、今。
背中に触れているのは岩ではない。
柔らかい。
とても柔らかい。
身体が沈み込むほどふかふかの感触が、全身を包み込んでいる。まるで雲の上に寝ているようだった。
目を閉じたまま、レイン王子はゆっくりと息を吸う。
夢の中のような空腹も、喉の痛みもない。身体の痛みも、苦しさもない。
何故だろう。
そして気づく。
とても優しい匂いがする。
甘く、やわらかい香り。花の匂いだろうか。強すぎず、部屋の空気に静かに溶け込んでいる。
朧げな意識の中で、ウィル王子はゆっくりと瞼を開いた。
視界に映ったのは見慣れない天井だった。白く清潔な天井。窓から差し込む柔らかな光が部屋を明るく照らしている。
身体の下には、広くて柔らかいベッド。
真っ白なシーツはしわ一つなく整えられており、触れるだけで上質だと分かる布だった。
ここは王城ではない。
だがとても整った部屋だった。
静かで、清潔で、どこか落ち着く空気が流れている。
自分の服にも気づく。
白いブラウス。
黒くゆったりしたズボン。
どちらも寝巻きらしい簡素な服だが、生地は柔らかく清潔感がある。
ウィル王子は鼻がいい。
新品かどうかは一瞬で分かる。
これは新品だ。
一度も着られていない匂いがする。誰かが自分のために用意したのだろう。
そう考えた瞬間――
コンコン、と静かなノックの音が部屋に響いた。
続いて、ゆっくりとドアが開く。
部屋の中に入ってきたのは、一人の少女だった。
長く流れる金色の髪。窓から差し込む光を受けて、柔らかく輝いている。
瞳は深い緑色。
整った顔立ちはまだ幼さを残しているが、それでも目を引くほど美しかった。
年齢は十三歳ほどに見える。
上品な雰囲気を纏っていて、立ち姿にはどこか高貴さがあった。
少女はベッドの方へ視線を向け――
「!」
次の瞬間、表情がぱっと明るくなった。
まるで太陽の光が差し込んだように、顔全体が輝く。
頬はほんのり赤く染まり、口元が大きく開く。心から嬉しそうな、無邪気な笑顔だった。
「目が覚めたんですね!」
弾むような声。
だが、その緑の瞳はどこか潤んでいた。安堵したように息をつきながらも、今にも泣き出しそうな顔をしている。
どれほど心配していたのか、一目で分かった。
少女はベッドの横まで歩み寄る。
「ここに来るまでのこと、覚えていますか?」
ウィル王子は少しだけ眉を寄せ、記憶を辿る。
「……市場の裏道に横たわっていたところまでは覚えています」
声はまだ少し掠れていた。だが意識ははっきりしている。
「貴方が助けてくれたのですか?」
少女は少し慌てたように首を横に振った。
「ここに連れてきたのは私ですが、着替えの用意や部屋を綺麗にしてくれたのはメイド達です!」
少し身を乗り出しながら続ける。
「みんな、とても心配していたんですよ!?」
本当に怒っているわけではない。むしろ安心したからこそ出る声だった。
ウィル王子はその様子を静かに見つめる。
「名前は、なんて言うんですか?」
少女に問いかける。
すると少女は、にこりと無邪気に笑った。
まるで太陽のような明るい笑顔で、迷いなく答える。
「ヴァロイアント・リリー・エリファーです」
それは――
数年後、この国の歴史の中で最も有名になる聖女の名前だった。




