第26話 裏道
「……大丈夫ですか?」
エリファーは、慎重に男の顔を覗き込んだ。裏道は昼だというのに薄暗く、石畳の隙間から湿った冷気が立ち上っている。近くのゴミ箱からは生臭い匂いが漂い、通りの向こうからは遠く酒場のざわめきが聞こえていた。
フードの影に隠れていた男の顔が、わずかに揺れる。呼吸は荒く、浅い。喉がひくひくと小さく痙攣し、空気を掴もうとするように胸が不規則に上下している。
その瞬間――
エリファーは目を疑った。
フードの隙間からこぼれ落ちた黒髪。そして薄く開いた瞼の奥で、ぼんやりと揺れる赤い瞳。
(……嘘)
第2王子だ。
間違えるはずがない。前世で殺し屋として生きていた頃から、エリファーは“人の顔を覚える”ことに関しては異常なほどの精度を持っていた。一度会えば忘れない。骨格、瞳の色、視線の癖、眉の動き――ほんの一瞬見ただけでも記憶に焼き付く。
(でも……さっき馬車に乗っていなかった?)
つい先ほど、王騎士団の馬車の中にいたはずの男が、なぜこんな薄汚れた裏道で倒れているのか。疑問が胸の奥で膨らむ。
だが、今はそれを考えている場合ではなかった。
第2王子の顔色は明らかに異常だった。青白く血の気がないのに、頬だけが熱で赤く染まっている。唇は乾ききり、うっすらと白くひび割れていた。呼吸は浅く早く、苦しそうに喉が鳴る。
このまま放っておけば危ない。
(ここ、治安悪いのよね……)
裏道は狭く、建物に挟まれて日差しも届かない。湿った空気が肌にまとわりつく。もう少し奥へ進めば、甘ったるい香水と煙草の煙が漂う繁華街に出る場所だ。夜になれば酔客や荒くれ者が集まり、喧嘩や揉め事が絶えない区域。
こんな場所に王子を置いておくわけにはいかない。
「少し移動しますね」
エリファーは男の腕を肩に回し、身体を支えた。ぐったりとした体は思った以上に重い。意識が朦朧としているのか、ほとんど力が入っておらず、全体重がエリファーに預けられる形になる。
そのときだった。
奥の暗がりから、ゆっくりと足音が響いた。
重く、鈍い足取り。
石畳を踏み鳴らす音が近づいてくる。
やがて影の中から一人の男が姿を現した。
大柄だった。肩幅が広く、腕も太い。酒で火照っているのか顔は真っ赤で、頬が不自然に膨らんでいる。シャツは乱れ、胸元のボタンは二つほど外れ、襟元には女物のファンデーションがべったりと付着していた。
近づくにつれて、鼻を刺すような強烈な香水の匂いが漂ってくる。
男は状況を一目見て、口角をゆっくりと吊り上げた。
「へぇ」
ねっとりとした視線がエリファーの体を舐めるように動く。髪、服装、立ち姿。その一つ一つを値踏みするように見回したあと、男は王子の存在をほとんど気にする様子もなく歩み寄ってきた。
そして――
突然、第2王子を肩に担ぎ上げた。
「……っ!」
エリファーが反射的に腕を伸ばすと、男の分厚い手がその手首をがしりと掴んだ。
「何するんですか?やめてください。今この人、看病しなきゃいけないんです」
声は落ち着いていた。だがその瞳は冷たい。
「おれぁ病院知ってるぜ?連れてってやろうか?」
男の口から酒臭い息が吐き出される。
「結構です」
エリファーは即答した。
男は不機嫌そうに舌打ちする。
「お嬢ちゃん、貴族だろ?その格好。世間知らずのお嬢様に病院の場所なんて分かるのか?」
この辺りにまともな病院などない。
男の言葉は明らかな嘘だった。
こうして親切を装い、裏道のさらに奥へ連れ込む。繁華街の裏ではよくある手口だ。消えた貴族の娘の噂も、少なくない。
だが――
いま男が相手にしているのは、かつて世界で名を恐れられた殺し屋“麗華”の転生体だった。
「本当にやめてください」
その瞬間だった。
「……は、っ……!」
第2王子の呼吸が急に乱れた。
胸が激しく上下し、指先が震える。顔は熱に浮かされて赤くなり、次の瞬間には血の気が引いて青白くなる。
明らかに危険な状態だった。
(時間がない)
エリファーは王子をそっと地面に横たえた。石畳の冷たい感触が背中に伝わる。
そして、ゆっくりと男の方へ歩み寄る。
男は勘違いしたのか、にやりと笑って手を伸ばした。
その瞬間。
パキン。
乾いた音が裏道に響いた。
エリファーは男の手首を掴み、迷いなく捻り上げていた。骨が軋む感触が掌に伝わる。
男の顔が驚愕で歪む。
「このフードの人、死んじゃうかもしれないんです」
エリファーの瞳から温度が消えていた。
「貴方に構っている暇はありません」
それでも男は、意地で拳を振り上げた。
だが次の瞬間には、身体ごと地面に叩き伏せられていた。
一撃。
二撃。
三撃。
拳が入るたび、鈍い音が響く。第2王子の荒い呼吸が聞こえるたび、エリファーの動きはさらに鋭く、速くなっていく。
やがて男は完全に動かなくなった。
裏道に静寂が落ちる。
響くのは、第2王子の苦しそうな呼吸音だけだった。
「あーあ……」
エリファーは小さく呟く。
「私、真っ当な人生送りたかったのに」
そう言いながら、第2王子を抱き上げる。体は熱く、異様なほどの熱が腕越しに伝わってくる。だが意識を失っているせいか、ぐったりとして軽く感じるほど力が抜けていた。
夕暮れの空がゆっくり紫色に染まり始める。
エリファーは足早にその場を離れた。
屋敷に戻ると静かな客間のベッドに横たえ、濡らした布を額に当てる。薄暗い部屋の中で、第2王子の赤い瞳がわずかに揺れていた。
熱に浮かされたその瞳は、まだ苦しげに焦点を結ばない。
夜は――まだ終わらない。




