第25話 け、けけけ、けけ剣!?
その後、なんやかんやあり――デートは無事、何事もなく終了した。少なくとも、その時のエリファーはそう思っていた。
「え?それはほんとか?」
何やらヴェルディが焦っている。黒い服を着た男がヴェルディと話をしていた。
それからヴェルディはエリファーのもとへ小走りして来た。
「取引先の相手が激怒したみたいで緊急招集になった。ごめんな」
ほんとに申し訳なさそうなヴェルディの顔にエリファーは微笑んだ。
「大丈夫だよ。行ってきな」
夕方の王都は柔らかな橙色の光に包まれていた。市場の喧騒も少しずつ落ち着き、商人たちが店じまいの準備を始めている。焼き菓子の甘い香りや、肉を焼く匂いが風に混じって流れてくる。
「エリファー、ほんとにいいのか?」
ヴェルディが首を傾げながら不思議そうに問いかけた。大きな体を少し前に屈め、まるで飼い主の様子を気にする大型犬のような表情をしている。
それもそのはずだった。
ヴェルディの家の馬車はすぐそこに停まっている。だがエリファーは、その馬車に乗ろうとしなかったのだ。
「ごめんな、俺だけ帰って」
ヴェルディは申し訳なさそうに後頭部を掻く。だがその声にはどこか名残惜しそうな響きがあった。
「うん。大丈夫!この後ちょっと寄りたいところがあってね!」
エリファーはにこっと笑った。夕日の光が銀色の髪に反射して、きらりと輝く。
「馬車なんて使わなくてもすぐ近くにあるの!」
その笑顔はいつも通り明るく、どこか無邪気だった。
「そっか。じゃあまた今度なぁー!」
ヴェルディはそう言うと、大きく腕をぶんぶん振る。まるで尻尾を振る犬のように全身で別れを表現している。
エリファーも小さく手を振り返した。
やがて馬車の車輪が石畳を鳴らしながら遠ざかっていく。夕暮れの通りを進み、角を曲がるとその姿は見えなくなった。
それからエリファーは、くるりと踵を返した。
再び市場へと戻る。
空は少しずつ紫色へと変わり始め、露店の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。商人たちの声も昼間ほどの勢いはなく、どこか一日の終わりを感じさせる穏やかな空気が漂っている。
今日はデートの他に、エリファーにはもう一つ“使命”があった。
それは――さっき見つけたブローチだ。
(あれ絶対欲しい……)
思い出すだけで胸が高鳴る。
緑色の宝石のような石。深い森を閉じ込めたような美しい色をしていた。その周りを繊細な金の縁が囲み、さらに黒い細いリボンが添えられている。
派手ではないのに、妙に目を引く。
まるで静かな夜の中で、ひとつだけ輝く星のようだった。
(メッッッッチャ好み……)
あれはもう完全に一目惚れだった。
ヴェルディが席を外していた時に見つけたのが幸運だった。もし一緒に見ていたら、きっと「デートだから」と言って買ってくれただろう。
だが、それは申し訳ない。
今回のデートだって、夫人の気まぐれで決まったものなのだ。ヴェルディは優しいから、そういうことを気にしないだろうけれど。
(自分で買おう)
そう思い、さっきの店の方へ歩き出す。
その時だった。
ふと、視界の端に何かが映った。
市場の端にある細い路地。昼でも薄暗く、夜になるとほとんど人が通らない裏道へと続く場所。その入口付近に置かれた大きな木箱のゴミ箱。
エリファーの視線は、そこに引き寄せられた。
いや――正確には。
ゴミ箱の後ろに立てかけられている“それ”に。
(……あれ?)
細長い金属の光。
剣だった。
(え)
エリファーの思考が一瞬止まる。
(え!?!?!!剣!?)
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
(え?ケン!?剣!?)
完全に混乱していた。
市場の裏道に剣が落ちている時点でおかしい。だが、問題はそこではない。
その剣の形。
装飾。
柄に刻まれている紋章。
(これ……王都騎士団の剣じゃん!!)
エリファーの目が見開かれる。
王都騎士団の剣がこんな場所に放置されているなどあり得ない。もし落としたのなら大問題だ。
(さっき落としたのかな?)
そう思ってよく見ると――
剣の隣に、何かがある。
人だった。
壁にもたれかかるようにして、男が蹲っている。
黒いフードを深く被っていて顔はほとんど見えない。ただ、肩が大きく上下しているのが分かる。呼吸が荒い。浅く、苦しそうに空気を吸っている。
まるで溺れている人のようだった。
(えぇー……この人どうしたんだろう)
エリファーは少し眉を寄せる。
(熱かな?)
ゆっくりと近づき、しゃがみ込む。そしてそっと男の額に手を当てた。
その瞬間。
(……熱っっ!!)
思わず目を見開く。
信じられないほど熱い。まるで熱した石に触れたかのようだった。肌は汗で湿っているのに、体温は異常なほど高い。
エリファーの手の感触に気づいたのか、男の瞼がわずかに動いた。
ぼんやりと開く目。
だが焦点は合っていない。
意識が朦朧としているのが一目で分かった。
唇は乾き、白くひび割れている。喉が小さく震え、やがて掠れた声が漏れた。
「……み、ず……」
かすかな声だった。
今にも消えてしまいそうなほど弱い。
「水ですね!わかりました!」
エリファーはすぐに答えた。迷いはない。
手を軽く掲げ、魔力を集中させる。次の瞬間、空中に透明な水がふわりと生まれた。光を受けて小さくきらめく。
「水をどうしますか?」
エリファーが顔を覗き込む。
男の瞳はぼやけていたが、かろうじて唇が動いた。
「く……ち……」
「ナルホド、口ですね」
エリファーは真面目な顔で頷いた。
そしてそっと男の口元へ水を流し込む。水は唇を濡らし、喉へと落ちていった。
男の呼吸がほんの少しだけ落ち着く。
「本当に大丈夫ですか?」
エリファーは心配そうに顔を覗き込んだ。
その瞬間、男の顔色がはっきり見える。
ありえないほど真っ青だった。
血の気が完全に引いている。唇も紫色に近く、呼吸はまだ荒い。今にも倒れてしまいそうな危うさがあった。
「ちょっと移動しましょう」
エリファーは男の肩を支えた。
この裏道に長く居るのは危険だ。空気は湿り、どこか不穏な気配が漂っている。
エリファーは男の体を持ち上げ、ゆっくりと立ち上がった。
そのとき――
裏道の奥から、重い足音が聞こえてきた。




