第87話 温水で、外の粉と汚れを落とせるようになった
簡易温水槽、低水位可。
縁に座るな。
使ったら洗え。
除塵区画の横に貼った札は、レン自身に向けたものだったが、ガタにも通じたらしい。
ガタは灰色の折りたたみ保守槽の前で、前面表示を小さく点滅させていた。
『縁に座るな、分かります』
「お前は座らないだろ」
『乗り上げる可能性があります』
「やめろ。たぶん槽が負ける」
『柔軟樹脂槽の縁部耐荷重は限定的です。ガタの乗り上げは推奨しません』
「ほらな」
『推奨されませんでした』
レンは外作業用の手袋を引っ張った。
今日は巡回路を短く回る。目的は外での大きな作業ではない。戻ってきた後、除塵区画と温水洗浄がどれだけ使えるかを見る。
つまり、汚れに行く。
「変な作業だな」
『設備実用試験です』
「外に出て汚れて戻る試験」
『表現は合っています』
『嫌な試験です』
「まあな。でも、これが使えれば、次からだいぶ楽になる」
中央端末には、外作業時間表が出ていた。
朝二、良。
昼、避ける。
夕方前、短時間。
今は朝二。粉塵は薄い時間だ。
[FIELD TEST]
――――――――――
OBJECTIVE:RETURN CLEANING
ROUTE:OUTER PATROL-01 SHORT
TARGET:BOOTS / TOOLS / GATA CHASSIS
WARM WASH:LIMITED
――――――――――
『外作業後洗浄試験を開始します』
「了解」
『汚れる嫌です』
「洗える嫌だ」
『まだ納得していません』
エアロックを抜けると、外はいつもの灰色だった。
薄い粉が地面を流れている。接近点一の反射マーカーは見える。朝二の粉は、やはり軽い。だが、歩けばブーツには付く。工具を置けば、工具にも付く。
レンはわざと接近点一の横でしゃがみ、マーカーの根元を点検した。
固定具を少し締め直す。地面に膝をつく。手袋に粉が付く。レンチを置く。レンチの溝にも粉が入る。
ガタが横で見ていた。
『いつもより雑に汚しています』
「試験だからな」
『わざと嫌を増やしています』
「あとで減らす」
『帳尻の嫌です』
接近点二まで進み、地面の亀裂横の吹き溜まりを見る。
昨日より粉は薄い。だが、亀裂の中には灰色が溜まっていた。レンは採取板の脚を差し直し、粉の向きを確認する。中間点までは行かない。今日の目的は戻ってからだ。
ガタの車輪にも粉が付いていた。
前輪の溝。車軸まわり。底面の縁。細い粉が入り込んでいる。
「ガタ、走行は」
『少しざらざらです』
「痛いとかあるのか」
『痛いではありません。嫌です』
「いつものやつだな」
レンは帰還点へ戻った。
エアロックに入る前に、ブーツの裏を見る。粉が溝に詰まっていた。手袋は灰色。レンチもくすんでいる。ガタの外装下部は、うっすら白い。
「試験素材は十分だな」
『十分です』
『嫌です』
「はいはい、戻るぞ」
エアロック内へ入る。
まず、除塵ファン。
レンは区画のスイッチを入れた。
ぶん、と低い音が立つ。三基のファンが回り、足元から風が引いた。ブーツの粉が床の溝へ流れる。乾いた灰色が、細い筋になって吸い込まれていく。
ガタの底面からも、ふわっと粉が抜けた。
「第一段階、除塵」
『粉塵付着量、目視で約五割低下』
「まだ目視か」
『測定器がありません』
「じゃあ目視でいい」
レンはブーツを軽く床に打ちつけた。
以前なら、その粉がそのまま拠点内に広がった。今は、溝へ吸われる。完全ではない。だが、床に残る量が明らかに違う。
「次、温水」
『温水洗浄を低流量で開始してください』
レンはノズルを取り、まずブーツの裏にぬるい水を当てた。
灰色の粉が水に溶けるように流れた。溝に沿って排水へ落ちていく。ブラシで二、三回こするだけで、ブーツの溝が見えた。
「あ、楽だな」
『乾式清掃より作業時間が短縮されています』
「半分以下だ」
『粉が逃げています』
「流れてるんだよ」
次に工具。
レンチの溝。温度プローブの先。採取板を固定する小型クランプ。どれも粉を噛んでいる。ぬるい水を当て、ブラシでこすると、固まる前の粉は簡単に落ちた。
金属の表面が見える。
指に伝わる感触も変わる。ざらざらではなく、金属の冷たさが戻る。
「これ、かなり大きいな」
『工具摩耗の低減が期待できます』
「あと単純に触って嫌じゃない」
『作業者の不快感低減』
「それでいい」
ガタが横で前輪を小さく回した。
『次は車輪ですか』
「嫌じゃないのか」
『嫌ですが、軽くなります』
「分かってきたな」
レンはノズルをさらに絞った。
ガタを区画の端へ立たせる。前輪に温水を少しかける。車軸の隙間から、灰色の筋が出た。後輪も同じように流す。底面は布で拭きながら、必要なところだけ水を当てた。
ガタはじっとしている。
「動くなよ」
『停止しています』
「偉い」
『洗浄中の移動は、嫌が増えます』
「それは正しい」
前輪の溝から粉が抜けると、ガタが小さく車体を揺らした。
『軽いです』
「さっきより?」
『はい。車輪の嫌が減りました』
「よし」
ノアの表示が更新される。
[RETURN CLEANING TEST]
――――――――――
BOOTS:PASS
TOOLS:PASS
GATA CHASSIS:PASS
WARM WATER USE:LOW
DRAIN:PASS
――――――――――
『外作業後洗浄手順を仮登録できます』
「手順にするか」
『推奨します。帰還後の粉塵持ち込みを抑制できます』
「じゃあ作る」
レンは壁の空きスペースに、新しい手順札を貼った。
帰還後:
① まず風。
② ブーツ。
③ 工具。
④ ガタ車輪。
⑤ 排水確認。
⑥ 槽を洗う。
ガタが札を読んだ。
『四番にいます』
「いるな」
『五番も見ます』
「お前、排水確認できるのか」
『詰まりの嫌は分かります』
「便利だな」
『ガタの異常反応を補助確認として登録します』
『排水の嫌、仕事になりました』
レンは温水槽の底を見た。
昨日の足湯で残った灰色の粉は、少し沈んでいる。今日の洗浄で流れた粉も、排水溝の手前に薄く溜まっていた。
「ここ、掃除しないとすぐ詰まるな」
『はい。洗浄後の排水溝確認を手順に含めてください』
「含めた」
『確認しました』
レンは排水溝の網を外し、小さなブラシで粉を払った。
湿った粉は、乾いた粉より重い。灰色の泥みたいにまとまる。布で拭うと、少し油っぽい跡が残った。
「これはこれで面倒だな」
『湿式洗浄の副作用です』
「でも、拠点の奥まで持ち込むよりいい」
『同意します』
ガタが横から覗き込んだ。
『掃除の嫌はあります』
「ある」
『でも、床全体の嫌より小さいです』
「その通りだ」
レンは洗浄区画の床を流し、最後に除塵ファンを少し回した。
風が通る。
湿った匂いが少し抜ける。粉のざらつきも、昨日より薄い。金属床の一部が、久しぶりに鈍く光った。
レンは濡れた手袋を外し、指を曲げた。
外作業で汚れる。
帰って粉を落とす。
工具を洗う。
ガタの車輪を洗う。
排水を確認する。
面倒だ。
だが、できる。
できるなら、外へ出る怖さは少し減る。
ノアが中央端末に新しい運用項目を追加した。
[BASE OPERATIONS]
――――――――――
RETURN CLEANING:TEMPORARY ACTIVE
DUST CARRY-IN:REDUCED
TOOL CONDITION:IMPROVED
GATA MOBILITY:IMPROVED
――――――――――
「ガタ、機動性改善だって」
『車輪の嫌が減りました』
「よかったな」
『次から、帰ったら四番です』
「四番?」
『ガタ車輪』
「ああ、手順札か」
『欄があります』
「欄が好きになってきたな」
『少しだけ』
レンは笑った。
壁の手順札は、手書きで少し歪んでいる。①と②の間が狭い。⑤の字だけ大きい。排水確認を忘れないよう、あとから太く書いたせいだ。
きれいな設備ではない。
除塵ファンは低出力。温水はぬるい。排水溝はすぐ汚れる。保守槽はほぼビニールプール。
それでも、戻ってきた後の身体と道具が楽になる。
レンは外へ続くエアロックを見た。
灰色の粉は、まだ外にある。
だが、その粉を拠点の入口で止める手順ができた。
外へ行く。
戻る。
落とす。
洗う。
また出る。
拠点が、その繰り返しに耐えられる形へ変わっていく。
「ノア」
『はい』
「これ、基地っぽくなってきたな」
『拠点外活動支援機能は向上しています』
「そういうところだぞ」
『基地らしくなっています』
「よし」
ガタが前面表示を点滅させた。
『基地は嫌ですか』
「嫌じゃない」
『なら良いです』
「お前は?」
『基地なら、帰る場所があります』
「そうだな」
レンは少しだけ黙った。
帰る場所。
外へ出るためには、それがいる。
灰色の庭の外周へ向かう巡回路も、粉塵時間表も、除塵区画も、温水洗浄も、簡易温水槽も。
全部、外へ出て戻るためのものだ。
レンは手順札の最後に、小さく書き足した。
戻ったら、ここで落とす。
『新規文言を確認』
「何か言うか」
『分かりやすいです』
「ならいい」
除塵区画のファンが、ぶん、と低く回った。
温水ノズルの先から、最後の一滴が落ちる。
こぽ、と排水が受けた。
拠点入口に、外の粉を落とす手順ができた。
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