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辺境惑星で旧文明AIを起動したら、銀河インフラが再起動しはじめた 〜廃船修理のつもりが、星系管理者に登録されました〜  作者: 七森シオン
北東中継塔と灰色の庭

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第86話 折りたたみ保守槽に、湯を張った

 温水洗浄、低出力可。


 拠点入口の壁に貼った札は、少しにじんだまま乾いていた。


 除塵区画のノズルからは、まだ細い温水しか出ない。手を洗うには十分。工具の溝に詰まった粉を落とすにも使える。ガタの前輪と車軸まわりを洗うと、関節の動きも少し軽くなった。


 だが、身体を温めるには足りない。


 レンは除塵区画の前で、ぬるい温水を指に当てながら言った。


「ノア。これ、貯められないか」

『可能です。ただし、常設浴槽設備は未確認です』

「浴槽って言ったな」

『身体加温を目的とするなら、温水槽が必要です』

「あるのか」

『折りたたみ保守槽があります。旧整備区画の収納棚に保管されています』

「保守槽」

『小型機材の洗浄、冷却、液体保持に使われていた柔軟樹脂製の槽です』

「人が入れる大きさか」

『姿勢を選べば可能です』

「その言い方、嫌な予感しかしない」


 足元で、ガタが前輪を小さく鳴らした。


『見た目の嫌ですか』

「たぶんな」

『見てから嫌と言います』

「成長したな」

『予測嫌は外れることがあります』


 レンは旧整備区画へ向かった。


 そこは、拠点の奥にある細長い部屋だった。棚には工具の残骸、配管部品、使えないフィルター、割れたケースが並んでいる。空気は乾いていて、古い樹脂の匂いがした。


 ノアが棚の一つを照らす。


[STORAGE ACCESS]

――――――――――

ITEM:FLEX MAINTENANCE TANK

STATUS:FOLDED

CAPACITY:LIMITED

USE:TEMPORARY LIQUID HOLD

――――――――――


「これか」


 棚から引き出したものは、灰色の塊だった。


 折りたたまれた柔軟樹脂。縁には補強フレームが入っている。底面には排水コネクタ。側面には、古い注意書きが薄く残っていた。


 レンはそれを床に広げた。


 ばさ、と重い音がした。


 四角い浅い槽が、床の上に開く。


 灰色。

 柔らかい。

 端が少しへこんでいる。

 補修テープの跡が二か所ある。


 レンはしばらく黙った。


「……これ、ほぼビニールプールだな」

『柔軟樹脂製保守槽です』

「いや、ビニールプールだろ」

『素材は多層耐熱樹脂です』

「高機能ビニールプール」

『分類が不正確です』

「気持ちは正確だ」


 ガタが槽の縁を見た。


『ぬるい嫌の箱です』

「まだ湯は入ってない」

『入ったら、ぬるい嫌の箱です』

「そこは譲らないんだな」


 レンは槽の底を確認した。


 小さな亀裂が一つ。補修テープの横に白い筋が入っている。これに温水を入れて漏れたら、床がひどいことになる。


「ノア、耐えるか」

『現状では低温域のみ推奨。三十五度以下、低水位で試験してください』

「風呂って温度じゃないな」

『身体加温の初期試験には有効です』

「ぬるい」

『はい』

「まあ、今はぬるくても勝ちか」


 補修材を塗り、亀裂の上に薄いシールを貼る。圧着するため、レンは膝をついて手のひらで押した。柔軟樹脂の表面が、ぺた、と鳴る。


 ガタが少し離れて見ていた。


『その音、安い嫌です』

「分かる。旧文明感が急に消えた」

『機能には影響ありません』

「そういう問題じゃない」


 レンは保守槽を除塵区画の横へ引きずった。


 床の排水溝に近い場所。温水ノズルからも届く距離。万一漏れても、排水へ流せる。


 保守槽の底面コネクタを仮排水に接続し、縁の補強フレームを立てる。形は安定した。見た目はやはり、どう見ても簡易プールだった。


[FLEX TANK SETUP]

――――――――――

POSITION:DE-DUST SECTION SIDE

DRAIN:CONNECTED

TEMP LIMIT:35.0

FILL:READY

――――――――――


「入れるぞ」

『低流量で開始してください』

「分かってる」

『湯張りですか』

「湯張りって言うと急に生活感が出るな」

『用語として適切です』

「そこは認めるのか」


 レンはノズルを保守槽の縁へ固定した。


 点検弁を開く。


 最初は、細い水が落ちるだけだった。


 ちょろ、ちょろ、と頼りない音がする。底に薄く広がった温水が、灰色の樹脂を濡らした。温度表示は二十九度台。温かいが、まだかなりぬるい。


 レンは腕を組んだ。


「遅いな」

『流量が低いため、満水まで時間がかかります』

「満水にはしない。底から十センチでいい」

『足湯程度です』

「今日はそれでいい」

『足湯なら、車輪湯ですか』

「ガタは入らない」

『車輪湯は嫌です』

「なら聞くな」


 温水は少しずつ溜まっていく。


 こぽ。

 ちょろ。

 こぽ。


 除塵区画のファンの音に、水音が混ざった。拠点の中で水が溜まる音を聞くのは、妙に落ち着かなかった。貴重なものを床に流しているような罪悪感もある。だが排水はつないだ。温度も低い。使い終われば戻せる分は戻す。


 レンは温度プローブを槽に入れた。


[FLEX TANK FILL]

――――――――――

LEVEL:LOW

TEMP:30.1

FLOW:STABLE

LEAK:NONE

――――――――――


「漏れてない」

『現時点ではなし』

「よし」


 ガタが保守槽の周りをゆっくり回った。


『見た目は嫌です』

「だろうな」

『でも、湯気が少しあります』

「三十度で湯気か?」

『室温が低いため、微細な水蒸気が視認されています』

「湯気ってことでいい」

『低温水蒸気です』

「湯気でいい」


 槽の底から、白いものがうっすら上がった。


 湯気と呼ぶには弱い。だが、レンにはそれで十分だった。


 白い揺らぎを見た瞬間、また、場違いな記憶が戻った。


 山の宿。

 夜の灯り。

 木の浴槽の縁。

 湯気の向こうで、ミオが笑っている。


「無理して入らなくていいのに」


 そう言われた気がした。


 レンはたぶん、何か理屈を言った。温度に慣れるまでの時間がどうとか、血流がどうとか、そんなつまらないことを言った気がする。


 そして結局、肩まで沈んだ。


 思い出せるのは、ミオの声と、湯気の白さだけだった。


 レンは目の前を見た。


 灰色の折りたたみ保守槽。

 補修テープ。

 仮配管。

 端に浮かぶ温度プローブ。

 横で前輪を少し鳴らすガタ。


 温泉からは、遠い。

 かなり遠い。


「……落差が、昨日よりひどいな」

『比較対象が不明です』

「言わなくていいやつだ」

『記憶の嫌ですか』

「嫌じゃない」

『良い嫌ですか』

「それでもない」

『難しいです』

「俺にも難しい」


 温水槽の水位が上がった。


 底から十五センチ。レンは弁を絞った。


『足部加温に適した水位です』

「足だけか」

『現状の湯量ではそれが妥当です』

「まあ、いきなり全身は無理だな」


 レンはブーツを脱いだ。


 靴下も脱ぐ。足に灰色の粉がついていた。除塵区画で落としきれなかった細かい粉だ。


 保守槽の縁に腰を下ろそうとして、嫌な音がした。


 ぎし。


「壊れる?」

『縁部に座らないでください』

「先に言え」

『今、警告しました』

「遅いんだよ」


 レンは近くの工具箱を椅子代わりにした。


 足を温水槽へ入れる。


 ぬるい。


 だが、温かい。


 足の裏に貼りついていた冷えが、ゆっくりほどける。指の間の粉が湯に流れ、灰色い筋になって底へ沈む。熱くはない。気持ちいいと言うには少し足りない。だが、身体の力が抜けた。


「あー……これ、まずいな」

『異常ですか』

「違う。動きたくなくなる」

『身体加温による緊張低下です』

「そういう言い方でもいい」


 ガタが槽の縁から中を覗いた。


『人間が停止しています』

「停止じゃない。休憩」

『休憩なら、良いです』

「お前も車軸だけ洗うか」

『入りません』

「入らないんだ」

『ぬるい嫌の箱です』

「でも気になるだろ」

『気になります』


 レンは笑って、片手でノズルを持った。


 ガタの前輪と車軸まわりに、温水を少しかける。槽には入れない。粉が流れ、下の排水溝へ落ちる。


『軽いです』

「良い嫌か」

『良い嫌です』


 ノアの表示が更新された。


[FLEX TANK TEST]

――――――――――

TEMP:30.4

LEVEL:LOW

LEAK:NONE

USE:FOOT WARM / PARTS WASH

STATUS:TEMPORARY ACTIVE

――――――――――


「足湯と部品洗いか」

『表現を調整しますか』

「簡易温水槽でいい」

『登録します』


[BASE FACILITY UPDATE]

――――――――――

FLEX WARM TANK:TEMPORARY ACTIVE

WARM WASH:ACTIVE

DE-DUST SECTION:ACTIVE

RECOVERY SUPPORT:IMPROVED

――――――――――


 レンは温水に足を入れたまま、端末表示を見た。


 除塵区画。

 温水洗浄。

 簡易温水槽。


 どれも仮だ。低出力で、見た目も雑で、長時間は使えない。


 それでも、拠点の入口には、粉を落とす風があり、手を洗う温水があり、足を温める槽がある。


 閉じこもるだけの場所から、戻って休める場所へ。


 少しずつ変わっている。


 ガタが前面表示を点滅させた。


『レン』

「何だ」

『この箱は、見た目の嫌があります』

「あるな」

『でも、機能は良いです』

「褒めてるのか」

『嫌ですが、認めます』

「それで十分だ」


 レンは工具箱に背を預けた。


 温水はぬるい。槽は灰色。縁は少し歪んでいる。ノズルは仮固定。排水ホースも曲がっている。


 それでも、足は温かかった。


 拠点に、湯を張れる場所ができた。


 レンは目を閉じかけて、すぐ開けた。


「寝るとまずいな」

『作業中の睡眠は推奨しません』

「分かってる」

『温かい嫌は、人間を止めます』

「今日はそれ、正しい」


 ノアが静かに言った。


『次回以降、外作業後の短時間加温設備として運用可能です』

「短時間な」

『はい。湯量、温度、排水の制約があります』

「それでも十分だ」


 レンは足を引き上げ、布で拭いた。


 足の裏から粉が消えている。冷えも少し取れていた。ブーツを履き直すと、いつもよりきつく感じない。


 温水槽の底には、灰色の粉が沈んでいた。


「使ったら掃除がいるな」

『必要です』

「面倒だ」

『設備運用には清掃が伴います』

「現実的だな」


 ガタが槽の横を見て言った。


『掃除の嫌です』

『でも使う』

『使うなら、掃除します』

「いい返事だ」


 レンは壁に新しい札を貼った。


 簡易温水槽、低水位可。

 縁に座るな。

 使ったら洗え。


 ノアが少し間を置いた。


『三行目の表現が命令調です』

「俺向けだからいい」

『ガタにも分かります』

「ならいい」


 除塵区画の横で、灰色の折りたたみ保守槽がぬるい湯を抱えている。


 見た目は頼りない。


 だが、その頼りない槽から、白い湯気がほんの少し上がっていた。


 レンはそれを見て、息を吐いた。


 拠点に、温まれる場所ができた。

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