第85話 拠点に、温水が戻った
除塵区画のファンは、低い音で回っていた。
ぶん、ぶん、と一定ではない。三基目だけ、まだ少し荒い。けれど、入口の床に積もる粉は明らかに減っていた。外から戻ったブーツの跡も、前より浅い。
壁には札が二枚並んでいる。
除塵区画、低出力可。
温水、次。
レンは二枚目の札を見て、工具箱を開いた。
「じゃあ、次をやるか」
『温水洗浄ライン確認を開始します』
「名前、昨日のままか」
『はい。作業名は有効です』
「湯って入れなかったんだな」
『現時点では洗浄用温水です』
「かたい」
『ぬるい嫌はありますか』
足元でガタが言った。
「まだ分からん」
『熱い嫌はあります』
「熱かったら近づくな」
『温かい嫌なら、少し近づきます』
レンは除塵区画の奥にある配管カバーを外した。
昨日、ノズルと排水を通した時には触らなかった場所だ。細い温水ライン候補が、洗浄ノズルの裏へ伸びている。配管の表面には白い粉と古い油がこびりついていた。
ノアが壁面に断面図を出す。
[HYGIENE LINE CHECK]
――――――――――
DE-DUST FAN:ACTIVE
COLD WASH:LOW FLOW
THERMAL LINE:UNVERIFIED
TARGET:WARM WASH ENABLE
――――――――――
「温水ライン、生きてると思うか」
『地下外側点での熱反応から、低出力での循環残存が推定されます』
「つまり」
『詰まりを抜き、バルブを開けば、ぬるい水が出る可能性があります』
「ぬるいか」
『初期復旧としては十分です』
「十分だな」
レンは配管に耳を近づけた。
何も聞こえない。
いや、完全な無音ではない。奥の方で、かすかに、こ、と鳴ったような気がした。金属が冷えて縮む音かもしれない。水がどこかで動いた音かもしれない。
「ノア、圧は」
『ほぼゼロです。ただし、間欠的な圧変動があります』
「地下側の周期と同じ?」
『近似しています』
「つながってるな」
レンは配管の小さな点検弁にレンチをかけた。
硬い。
手首に力を入れても動かない。レンは体重を少し乗せた。レンチがきしむ。
「固いな」
『無理な回転は破断につながります』
「分かってる」
レンは一度離れ、古い潤滑剤の代わりに、少量の清水を弁の根元に垂らした。たいした効果はない。だが、乾いた粉が少しだけ緩む。
もう一度、レンチをかける。
ぎ、と鳴った。
動いた。
「よし」
『点検弁、微開』
「ここから慎重に」
弁を少しずつ回す。奥から、細い空気が抜ける音がした。
しゅ、と短く鳴って止まる。
ガタが後ろへ下がった。
『息を吐きました』
「配管のな」
『配管の息は嫌です』
「まあ、分かる」
レンはノズル下に小さな容器を置いた。
「まず捨て水」
『初期流出物は汚染されている可能性があります。直接接触を避けてください』
「了解」
点検弁をもう少し開く。
最初に出たのは、水ではなかった。
茶色がかった泥のようなものが、ノズルの先から、ぽた、と落ちた。
「うわ」
『堆積物です』
「分かってるけど、うわ」
『これは悪い嫌です』
「同意」
ぽた。
ぽた。
そのあと、細い水が出た。
茶色い。ぬるいかどうか以前に、使えない。レンは容器を替え、しばらく流した。
水の色が、少しずつ薄くなる。
ノアの表示に、温度が出た。
[WARM WASH TEST]
――――――――――
FLOW:LOW
TEMP:18.2 → 21.6
COLOR:UNSTABLE
USE:NOT READY
――――――――――
「二十一度」
『常温よりわずかに高いです』
「温水と言うには弱い」
『配管内の残水が混入しています。流量安定後に上昇する可能性があります』
「流すしかないか」
レンは容器を三つ並べた。
一つ目、濁り。
二つ目、薄い濁り。
三つ目、かなり透明。
水を捨てるのは惜しい。だが、ここで止めたら配管はまた詰まる。レンは歯を食いしばり、流し続けた。
ガタが三つ目の容器を覗いた。
『透明に近いです』
「近いだけだ。飲むなよ」
『飲みません。嫌です』
「それでいい」
温度表示が、また上がった。
[WARM WASH TEST]
――――――――――
FLOW:LOW / STABLE
TEMP:28.4
COLOR:CLEARING
USE:LIMITED WASH POSSIBLE
――――――――――
「二十八度」
『ぬるい洗浄水として使用可能です』
「ぬるい湯だな」
『洗浄水です』
「湯でいいだろ」
『分類は洗浄水です』
「夢がないな」
レンは手袋を外した。
手のひらは粉でざらついていた。爪の間にも、灰色の筋が入っている。除塵ファンで粉は落ちる。でも、細かい粉は手に残る。
ノズルの下に手を出した。
細い水が、手のひらに当たる。
温かい。
熱くはない。風呂には遠い。だが、冷たい水ではなかった。
レンは思わず黙った。
皮膚の表面に貼りついていた粉が、ぬるい水で流れていく。手の甲の汚れが薄くなり、指の間の灰色が溶ける。何日も金属と粉の感触ばかりだった手に、ぬるい水が当たっている。
「ああ……」
声が勝手に漏れた。
『温度、二十九・一度。流量、低安定』
「ノア」
『はい』
「これ、かなり違う」
『衛生能力が向上しました』
「そういう話でもあるけど、そういう話だけじゃない」
ガタが横から見上げた。
『人間の嫌が減りましたか』
「だいぶ減った」
『良い湯ですか』
「湯って言ったな」
『レンが言っていました』
「そうだな。良い湯ではないけど、良い」
レンはもう片方の手も洗った。
灰色の水が排水溝へ流れる。昨日通した排水は、こぽこぽと小さな音を立てて受けている。詰まらない。流れている。
ただ手を洗っているだけだ。
それだけなのに、拠点が少し人の場所に戻った気がした。
ノアの表示が切り替わる。
[HYGIENE LINE]
――――――――――
WARM WASH:ACTIVE
TEMP:29.3
FLOW:LOW
DRAIN:PASS
STATUS:LIMITED USE
――――――――――
「限定使用」
『長時間使用は推奨しません。熱源が低出力です』
「手洗いと工具洗いくらいか」
『可能です。外装洗浄にも短時間使用できます』
「ガタ、やるか」
『温かい嫌ですか』
「温かい粉落としだ」
『少しやります』
ガタは除塵区画の端に入った。
レンはノズルを絞り、ガタの前輪と車軸まわりにぬるい水を少しだけかけた。粉が流れる。車軸の隙間から、灰色の筋が出てくる。
『軽いです』
「車輪か」
『はい。嫌が減りました』
「よかったな」
レンは笑って、ガタの車軸まわりを布で拭いた。
布もすぐ灰色になった。だが、乾いた粉をこすり落とすよりずっと楽だ。
工具も試した。
レンチの溝に詰まった粉が、ぬるい水で緩む。ブラシで軽くこすると、金属の地肌が出た。完全にきれいではない。だが、使いやすくなる。
レンは洗ったレンチを見て、壁の札を剥がした。
温水、次。
その札の代わりに、新しく書く。
温水洗浄、低出力可。
字は少し濡れてにじんだ。
『表記がにじんでいます』
「読める」
『読めます』
「じゃあいい」
『温水、来ました』
「来たな」
ノアが拠点中央端末の施設図を更新した。
[BASE FACILITY UPDATE]
――――――――――
DE-DUST SECTION:ACTIVE
WARM WASH:LIMITED
HYGIENE SUPPORT:IMPROVED
NEXT:TEMP STABILIZATION / STORAGE TANK
――――――――――
「次、温度安定と貯めるタンクか」
『はい。現在は流量が低く、連続使用には向きません。温水を一時貯留する設備があれば、身体加温にも使用できます』
「身体加温」
『温まれます』
「さっき覚えたな」
『表現を調整しました』
レンは濡れた手を振った。
水滴が床に落ちる。すぐ排水溝へ流れていく。手がまだ少し温かい。
その温かさで、場違いな記憶が一瞬だけ戻った。
山の中の宿。
湯気。
木の浴槽。
ミオの声。
「熱いの苦手なのに、なんでそんな真面目な顔で入ってるの」
たぶん、何か言い返した。
内容は思い出せない。
レンは目を瞬かせた。
目の前にあるのは、木の浴槽ではない。配管むき出しの除塵区画、濡れた工具、低出力の洗浄ノズル。床には灰色の粉が残っている。
温泉からは、かなり遠い。
「……落差がひどいな」
『何との比較ですか』
「こっちの話」
レンは手をもう一度ノズルの下へ入れた。
ぬるい水が当たる。
それでも、温かい。
今はこれでいい。
ガタが前輪を小さく回しながら言った。
『レン』
「何だ」
『温かい場所は、嫌が減ります』
「そうだな」
『なら、増やしてください』
「要求がでかくなったな」
『良い嫌なので』
レンは笑った。
拠点入口の除塵区画に、低出力の温水が戻った。
まだ細い。まだぬるい。まだ長くは使えない。
だが、外から戻って粉を落とし、手を洗い、工具を洗える。
拠点はまた一つ、生活できる場所に近づいた。
ノアの最後の表示が、壁に残る。
[BASE OPERATIONS]
――――――――――
WARM WASH:AVAILABLE
DUST REMOVAL:IMPROVED
NEXT TASK:TEMP STORAGE / FLEX TANK
――――――――――
レンはその表示を見て、濡れた手を布で拭いた。
「次は、湯を張るか」
『簡易温水槽の候補を検索します』
「あるのか」
『折りたたみ保守槽があります』
「……嫌な予感がするな」
『嫌ですか』
「たぶん、見た目がな」
ガタが車体を少し揺らした。
『見た目の嫌です』
「まだ見てないだろ」
『予測です』
レンは笑い、除塵区画のファンの音を聞いた。
ぶん、と低く回る音。
こぽ、と排水が落ちる音。
細い温水が、ノズルの先で途切れる音。
拠点に、ぬるい湯が戻った。
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